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日本史

自由民権運動とはどんな運動?始まりの背景から終了までをわかりやすく解説!

2020年11月15日

民主主義の国日本。
自由と民権が保障され、選挙によって選ばれた議員が法を制定し国を動かしていますね。今では当たり前のこの体制ですが、1889年に大日本帝国憲法が制定され、1890年に初めて総選挙が実施されるまでは、自由民権は雲の上の存在でした。その雲の上にあったものを地上に下ろすことに成功したのが「自由民権運動」でした。
自由民権運動はどのような背景の下に始まり、どんな変化をもたらし、そしてどのように終わって行ったのでしょうか。その詳細を解説していきます。

自由民権運動の始まり

板垣退助

「自由民権運動」と聞いてまず頭に浮かぶのが板垣退助の名前ではないでしょうか。

そして、かの名言「板垣死すとも自由は死せず」だと思います(実際にはそう言っていないけど)。この言葉は板垣退助が岐阜で遊説中に暴漢に襲われ胸に負傷を負った岐阜事件によるものでした。(板垣はこのとき死んでないけど)。

この時期には他にも多くの事件が起きています。板垣退助を初め多くの人々が命を賭けて推し進めた自由民権運動。いったいどのようにして始まったのでしょうか。

明治維新後の政治状況

征韓論争の図

明治維新は260年間続いた江戸時代に終わりを告げるものでしたが、封建主義の社会がすぐに近代的な社会になったわけではありません。

自由民権運動が始まる前までは、薩摩藩と長州藩の藩士が「官僚」として政治を司る薩長藩閥政府が行われていました。その中、力を持っていた岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などは、欧米から近代化について学ぶという目的で、108名から成る「岩倉使節団」を形成し1871~1873年にかけて欧米を訪問する旅に出ました。

政府の要人がこぞって2年近くも日本を離れるため、留守政府を作り、この期間の政治を託すことにしました。この留守政府に任命されたのが西郷隆盛、大隈重信、板垣退助などでした。使節団は出発前、留守中には大きな改正を行わないことを留守政府に約束させたのですが、留守政府は徴兵令の制定や地租改正などを実施。しかも外交に関しては朝鮮半島への侵攻を主張する「征韓論」を唱えていました。

こうした留守政府の行動に対し、使節団の内地派のメンバーが反対し、結果的に征韓派が負け政界を去り、帰国した使節団の中から大久保利通が権力を掌握し独裁的な政治が始まりました。

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自由民権運動の高まり

民撰議院設立建白書の序文

征韓論者として下野した板垣退助でしたが、大久保利通率いる独裁政治に不満を抱き、後藤象二郎らと共に、1874年、「民選議院設立建白書」を政府に提出しました。

この建白書の提出が自由民権運動の始まりだとされています。明治時代になってから6年目のことです。民選議院設立建白書提出後、板垣退助を初めとするリーダーたちは愛国公党を結成し、自由民権運動は全国に広まりました。

一方、建白書を受けた政府側は、翌年1875年に板垣退助を参議に復帰させるなどある程度の歩み寄りを見せます。ところが1877年に始まった西南戦争に代表されるように、各地で騒乱が相次ぎ起こり、政府がこれらを武力で弾圧すると、自由民権運動はさらに高まりを見せるようになります。

国会開設運動を通して政党結成

この高まりの一環として、国会開設運動が起こり、1881年までの間に多くの建白書や嘆願書が政府に提出されました。結果として、板垣退助率いる自由党、大隈重信率いる立憲改進党、そして福地源一郎を党首とする立憲帝政党の3つの政党が結成されました。

自由党はフランスの急進的な自由主義に基づき、主権が国民にあることを主張しました。立憲改進党はイギリスの斬新的立憲主義に基づき、「君明同治」を唱え、君主と人民の代表による議会とが国の政務を行うことを目指しました。

また、政府派であった立憲帝政党は、主権は君主にあるべきだとする国粋主義を主張しました。このように3つの政党間、特に政府側と野党側では考え方が大きく異なっていたため、政府は自由党と立憲改進党の集会などで言論統制を行い弾圧したのです。

農民に浸透した自由民権運動

この時期になると自由民権運動の主要層は初期の士族から、農民、府県会議員、都市ブルジョワ、貧困者など幅広い層にも浸透していきました。

農民を巻き込んでいったのは、当時の経済的な逼迫から農民の生活が苦しくなっていたためで、自由党は、減税などを要求する農民たちを支援して、自由民権運動に結び付けていきました。この時期、こうした動きを抑えるために、政府と自由民権運動支持者の間で、多くの事件が起きました。そのいくつかを上げてみましょう。

ポイント

1881年 秋田事件:秋田立志会による蜂起策謀
1882年 岐阜事件:板垣退助が暴漢に襲われ負傷
1883年 高田事件:新潟県高田の自由党員を内乱陰謀の容疑で逮捕
1884年 群馬、秩父、飯田、名古屋などで諸事件発生

この中でも1884年に起きた秩父事件は最大規模で繰り広げられた事件として知られています。

当時秩父地方は養蚕農家の多いところでしたが、松方デフレにより繭の価格が下落し大打撃を受けました。こうした養蚕農家を支援したのが自由党でした。自由党と農民たちは減税を要求して武装蜂起し、役所や警察などを襲撃しました。

この事件は自由民権の要求には直接関わっていませんでしたが、農民の力の高揚を示すものであり、農民は、その後の自由民権運動の大きな推進力になっていきました。

自由民権運動の終結

各地で起こった事件に対し、政府は弾圧をより強めていったため、自由民権運動は一時的に衰退するのですが、1887年、後藤象二郎が自由民権派の再結集を呼び掛けました。そうして始まったのが、自由党と立憲改進党が団結した「大同団結運動」と「三大事件建白運動」でした。

「大同団結運動」と「三大事件建白運動」

1887年に始まった「大同団結運動」では特に議会政治を確立して、条約改正や地租軽減することなどを訴えました。

ところがここで自由党の板垣退助や立憲改進党の大隈重信からは強力な同意を得られず、しかも政府側は大同団結運動を弱らせるために大隈重信を入閣させ、後年、後藤象二郎をも入閣させたため、大同団結運動は求心力を失っていきました。

しかし、同年、この運動に参加していた片岡健吉らが「三大事件建白運動」を展開し、三大事件を意味する地租の軽減、言論や集会の自由、外交策の転換を求め建白書を元老院に提出しました。更に、各地から代表が東京に集結し、建白書の審議を陳情しました。

憲法の制定と総選挙

大日本帝国憲法

このように浮き沈みが繰り返された自由民権運動でしたが、全体として、規模を拡張し更に高揚していったため、政府はとうとうこの運動を抑えることができなくなってしまいました。1889年、ついに「大日本帝国憲法」が制定されるに至ったのです。

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そして翌1890年には、日本で初めて総選挙が行われました。憲法の制定は、日本国中で熱狂的に受け止められ、仮装行列や山車を引いて町内を練り歩くなど、お祭り騒ぎになったと言われています。

ところが実際には、大日本帝国憲法ではまだまだ自由が厳しく制定されていたのです。当時日本で雇われていたドイツ人医師ベルツは、そのことを彼の著書「ベルツの日記」の中で、「滑稽なことには、だれも憲法の内容をご存知ないのだ」と記しています。

とは言え、明治政府が発足してから約20年にして、国の秩序を文章化した憲法ができたわけで、ここに自由民権運動の成功を見ることができます。

まとめ

自由民権運動は、明治維新以降日本の政治を司っていた薩長藩閥政府に対抗し、1874年に板垣退助が民選議院設立建白書を提出したことによって始まりました。その後後藤象二郎や大隈重信らも加わり、展開されて行きました。

この運動は、フランスやイギリスの自由主義を基に築き上げられたもので、運動の過程で多くの騒乱や事件を引き起こしました。その一方で、農民の勢力を巻き込みながら高まりを見せ、1889年、大日本帝国憲法が制定されました。

もちろん、この憲法の内容は、現在の日本国憲法で謳われている自由民権からは程遠いものなのですが、自由民権運動を通して獲得した大日本帝国憲法の制定と総選挙の実施は、日本の歴史に一つの大きな布石を敷いたと言っても過言ではないでしょう。

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