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日本史 経済用語 豆知識

日本の財閥ってどうやってできたの?四大財閥の成り立ちと現在についてわかりやすく解説!

2020年7月11日

「財閥」という言葉については「なんか巨大な企業のことでしょ」という認識しかない方がほとんどだと思います。歴史の授業の中では「財閥解体」というキーワードは出てきたと思いますが、逆に言えばそのあたりでしか関わりのないなじみのない言葉という認識だと思います。 

今回は「財閥」というものにフォーカスを当てていきます。 

そもそも財閥とは?

財閥とは「ある一族が経営している巨大企業」です。家族経営の企業が巨大になり、様々な分野の業界に進出していくイメージです。この財閥が躍進するきっかけとなったのは「明治維新」です。とくに「三井財閥」・「三菱財閥」・「住友財閥」は三大財閥とされ、これに「安田財閥」が入って四大財閥とよばれる明治維新をきっかけに強大な企業グループとして成長しています。 

明治維新では社会のシステムが大きく変わります。それまでは地方の大名は藩政を引いており、各国で自由に政治ができるシステムでした。そのため商人は企業を拡大するためには各藩の御用商人になることで、藩の商いを一手に仕切ることによって商人として巨大グループになっていくという形です。しかしこの形では、各藩あるいは各地方限定のスケールであり全国的に巨大になるのは難しいシステムでした。 

しかし明治維新によって政治システムは「中央集権型」に大きくシフトします。これにより各藩縛りという概念が無くなり、ある意味市場開放が起こった訳です。財閥はその社会変化に対応して大きく成長したという訳です。 

しかしこの日本の財閥制度に終止符を打つことになったのは太平洋戦争の敗戦です。日本の敗戦後に日本を統治する立場となったGHQによって「財閥解体」を行いました。これによって大きすぎる企業を解体して市場の自由化を狙ったわけです。 

人の三井~三井財閥~

日本橋三越本店本館

まずは「三井財閥」についてです。 

三井財閥の成り立ちはそもそも伊勢の商人だったと言われています。起源とされる三井高俊は質屋を主業に酒、味噌の類を商材としていました。店は「越後殿の酒屋」と呼ばれ、これがのちの「越後屋」の起こりとなります。三井高俊の四男・三井高利が大きく手を広げていくことになります。伊勢から江戸に出て1673年(延宝元年)に越後屋三井呉服店(三越)を創業。京都の室町通蛸薬師に京呉服店(仕入れ部)を創業。その後京都や大阪でも両替店を開業し、呉服は訪問販売で一反単位で販売し、代金は売り掛け(ツケ払い)、という当時の商法をくつがえす、「店前売り」と「現金安売掛け値なし」(定価販売)などで庶民の心をとらえ繁盛しました。ある意味現代の小売業の業態を作り上げます。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり屈指の豪商となりました。 

結果として幕府との関係は初期の経営に重要な役割を果たし、公金為替による幕藩体制との密着度は深くなっていため、明治維新後は苦しい立場となりましたが「三井財閥」の財力を無視できるほど新政府の財政は余裕があるわけでもなかったため、日本政府は三井との関係無しでは存立がいかない状況なっていきました。 

その後も政府との関係を深くしていきます。国営の官営工場の払い下げなどを引き受け利益を上げていきます。また第一次世界大戦の好景気で三井財閥は産業が大きく伸張し、特に三井物産と三井鉱山を起点に造船・鉄鋼・石炭化学工業等の重化学工業分野への進出と三井銀行を起点に信託・生命保険・損害保険等の金融部分の拡充・多様化が進行しました。 

経営面での特徴としては三井合名会社を頂点とするコンツェルン体制を確立し、團琢磨(主席)、朝吹英二・波多野承五郎・有賀長文・小室三吉及び三井家から三井高泰(守之助)の5参事の合議制による運営体制に移行しました。また、傘下の中核企業を有限会社から株式会社へ移行していきます。合議制に移行したという部分がポイントでこれによって、他の財閥と比べ緩やかな連合体として発展を続けます。 

その後は日本国内の最大の財閥として君臨し続けますが、政府との距離感を保ちつつの経営となっていきます。戦後の財閥解体の際には軍部との距離を取っていたことGHQにアピールして財閥解体から逃れようと画策しますが、結局は財閥解体から逃れることはできませんでした。 

結束の住友~住友財閥~

住友財閥を長年支えた別子銅山

住友財閥の歴史としては戦国時代末期に住友政友の姉婿にあたる蘇我理右衛門が南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発したことがきっかけです。天正十八年(1590年)京都に銅吹所を設けたとされています。住友二代目友以の時大きく成長することになります。 

商売を大きくするには京都では狭すぎると寛永元年に、商業の中心になりつつあった大坂へ出張所を出し、寛永7年には本式に大坂に商売の拠点を移動します。ちょうど江戸時代に入るころで、銅は当時一大輸出品であり、住友の銅精錬業は時代の波に乗った産業でありました。その利益によって、糸、反物、砂糖、薬種等の輸入品を大坂・京都方面で売り捌くなど商業にも手をのばします。そしてさらに得た利益で両替商を開業するようになりました。友以の五男・友信は住友吉左衛門と名乗り、秋田の阿仁銅山、備中の吉岡銅山などの経営に乗り出し幕府御用の銅山師となって日本一の銅鉱業者へと発展させます。銅鉱業者としての利益が住友財閥を支えていくことになります。 

住友財閥の経営の特徴としては「君臨すれども統治せず」です。住友家当主は、持ち株会社住友合資、住友本社の代表となります。そして経営分離の方式を貫き、次第に経営の中心からは身を引いて財閥統合のための象徴的存在へと変わっていきました。そのためトップダウンの経営体形というよりは事業運営の方法が法制化されています。そういった方針からグループ各社結束というものが強くなり「結束の住友」と呼ばれるようになりました。 

住友財閥は重工業をメインとして発展をし続けました。そのため軍部の軍需物資を多く生産していました。そのため終戦後の財閥解体からは逃れられない運命にありました。 

政商~三菱財閥~

三菱財閥は明治維新の流れに乗って巨万の富を得た財閥です。 

土佐藩出身の岩崎弥太郎がまずの巨万の利益を得るきっかけとなったのは、維新政府が樹立し全国統一貨幣制度に乗り出した時のことです。これまで各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占めそれを新政府に買い取らせてその利幅で莫大な富を得ました。この情報を流したのは土佐藩出身で新政府の高官となっていた後藤象二郎です。同郷という共通項を通じてこの情報を手に入れます。 

このように政府との深いかかわりの中で商いを行っていくのが三菱財閥の特徴です。 

その後は海運事業に手を広げ、1875年に日本上海間の定期航路を開き、荷為替金融を開始するなどして激しい運賃競争の末に米国パシフィックメイル汽船会社と英国P&O汽船会社を撤退させることに成功します。これにより物流に強みを持つことに成功し西南戦争(1877年)の際には軍事輸送の主役を務めることに成功します。西南戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受け、さらには戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ一挙に莫大な利益を得ることになります。これには後藤象二郎を通じてときの最大の権力者大久保利通、大隈重信といった政府要人の後ろ盾がありました。 

これらのように政府要人とのパイプを用いて利益を稼ぐやり方をメインとしていたため、岩崎弥太郎の個人的なコネクションを利用することも多くあり財閥の経営としては「岩崎一族のトップダウン」の形式が取られます。岩崎弥太郎の死後も岩崎一族が影響力を強く持つ仕組みが続いたため「独裁政治」と呼ばれることになります。 

そうして成長した三菱財閥ですが戦後の財閥解体の流れには逆らえず財閥解体の憂き目を見ることになります。 

金融の安田~安田財閥~

安田財閥も明治時代から急成長を遂げた財閥です。

富山の下級藩士の家に生まれた安田善次郎が江戸に出て、両替商の「安田屋」を開業したのがはじまりで、「安田商店」と改名し、幕府の御用両替を軸に富を得、明治期になると、太政官札の両替によりさらに富を得て、金融業での地位を確立しました。

1876年には「第三国立銀行」を設置し、1880年には安田商店を「安田銀行」(みずほ銀行の前身)として業務を拡大しました。

さらに「共済五百名社」(明治安田生命の前身)という生命保険会社を設立したり、損害保険会社の筆頭株主として出資したりもしていました。

ちなみに、東大のシンボルとなっている安田講堂は安田善次郎が寄付したもの。だから安田ってついているんですよ。

四大財閥は今も日本を支えている

今回は3大財閥についてフォーカスしましたが、現代においてもこれらの3つ財閥を母体とするグループは存在します。三井・住友・三菱の名前を使用する会社も多くあり、それぞれのブランドイメージの向上に使われています。 

特に重工業や金融などの分野は大きな元手を必要とするビジネスなのでこれらの名前が残っている企業も多いです。

そしてそれらの企業は今も日本を支えているのですね。

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