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世界史 政治用語

ヤルタ会談とはどんな会談!第二次世界大戦後の体制を作り上げた会談について解説!

第二次世界大戦の終盤である1945年2月に行われたヤルタ会談。
アメリカ・イギリス・ソビエト連邦の首脳が集まって行われたこの会談は、戦後の様々な取り決めが行われただけでなく、東西冷戦や北方領土問題とも大きく関係しています。
この記事ではヤルタ会談の内容や取り決められた内容などについてわかりやすく解説していきます。

ヤルタ会談とは?

ヤルタ・リヴァディア宮殿で会談に臨むチャーチル、ルーズベルト、スターリン

ヤルタ会談は、第二次世界大戦末期である1945年2月4日から11日までの8日間、ソ連領であったクリミア半島のヤルタで行われた会談です。
会談に参加したのは、

ポイント

・アメリカ合衆国…ルーズベルト大統領
・イギリス…チャーチル首相
・ソビエト連邦…スターリン首相

この3つの国の首脳で、すでに見えてきていた第二次世界大戦の終末の行方を見据え、戦後のヨーロッパなどの問題や国際連合の設立などについて話し合われました。

ヤルタ会談で決められたこと

ヤルタ会談では、3つの大きな議題、そして秘密裏に決められた極東問題が話し合われました。
では、話し合われた議題を一つ一つ細かくご紹介します。

ポーランド問題

ヤルタ会談の大半はこのポーランド問題の話し合いとなりました。
1939年、ドイツとソ連はポーランドを侵略し、東西別々に占領していましたが、1941年にドイツが独ソ不可侵条約を破り、ポーランド全域を占領します。
その後再びソ連がポーランドの東半分を奪還し、そこにポーランド国民解放委員会を設立しました。
その他にイギリスのロンドンにポーランド亡命政府があったため、2つのどちらが正当な政府なのか、イギリスとソ連で対立が起こっていたのです。
ヤルタ会談では、ポーランド問題についてアメリカが仲介に入ることで、ポーランドで選挙を行って国民が政権を選ぶことに決まりました。

ポーランドの国境問題

ポーランド問題は、政権問題のほかにもう一つ国境も大きな問題となっていました。
ロンドンにあったポーランド亡命政府は戦前のポーランドの領土の全ての回復を求めていましたが、最終的にはポーランドの領土を西に大きくずらすことで決定しました。

ドイツ問題

ドイツの領土は、それまでドイツ領であったオーデル側とナイセ川以東のシレジア・ポメラニア・東プロイセンが失われ、ポーランドの領地となりました。
さらに、戦後のドイツは東側をソ連、西側をイギリス・フランス・アメリカが共同管理することが決められました。
東プロイセンを含むドイツ領は当時のドイツの国土の4分の1にもあたったためドイツにとってかなりのダメージになったのです。

国際連合の設立についての問題

第二次世界大戦開戦時に戦争を止めることができなかった国際連盟に変わり、新たな国際組織として国際連合を設立することが決められました。
この時、連合国として活躍したアメリカ・ソ連・イギリス・中華民国・フランスを常任理事国とし、この5か国が拒否権を持つことが決められます。
ヤルタ会談後に行われたサンフランシスコ会議によってこの内容は可決され、10月24日に51か国によって成立しました。

極東問題

ポーランド問題・ドイツ問題・国際連合設立問題とは別に、秘密裏に対日密約が決められました。
アメリカは当時、日本本土への空襲を行っており、降伏寸前まで日本を追い詰めていましたが、完全に降伏させるためにソ連の力が必要だと考えていたのです。
しかしソ連は日本と「日ソ不可侵条約」を結んでいたため、参戦することができない状態にありました。
そこでアメリカは、ソ連が望んでいた満州国の利権、樺太、千島列島の領有化を認め、ソ連がドイツを降伏させてからおよそ90日後に日本に宣戦布告することが決められました。

北方領土問題と朝鮮戦争につながる

対日密約により、ソ連はドイツを降伏させた1945年5月8日から約90日後の8月9日に日本に宣戦布告をし、満州・サハリン南部に進撃しました。
これによってソ連は、満州は中華民国の拒否により利権を認められませんでしたが、サハリン南部と千島列島を手に入れたのです。
千島列島のことを決めた日露和親条約には北方領土を日本の領土にすることが決められていました。
しかし、ロシア側は「北方領土は千島列島に含まれているのでロシア領となる」と言っており、これが北方領土問題として現在も続いているのです。

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さらに対日密約では、日本の植民地であった台湾は中華民国の領土、朝鮮は北部がソ連の領土、南部がアメリカの領土となることに決められました。
この事がのちの朝鮮戦争につながっていきます。

結局ヤルタ会談で決められたことは守られなかった?

ヤルタ会談で決められた内容は、1945年2月、ヤルタ協定として発表されました。このヤルタ協定で作られた第二次世界大戦後の国際体制をヤルタ体制と言われています。
そしてヤルタ体制は、1989年に行われたマルタ会談・マルタ宣言まで続行されました。ヤルタ会談では様々な取り決めが行われましたが、そのほとんどが守られませんでした。なぜかというと、ソ連が日本への進撃以外協定を守らなかったからです。
ソ連はヤルタ協定を無視して、ポーランドや東欧諸国に進撃して社会主義政権を成立させました。さらにワルシャワ条約を結び、東欧諸国にワルシャワ条約機構軍を派遣できるようにしました。
これに対してヨーロッパとアメリカの西側諸国は、NATO(北大西洋条約機機構)を創設し、この2つの対抗が東西冷戦となったのです。
第二次世界大戦後に設立された国際連合では、安全保障理事会の主要五か国(アメリカ・中華民国・ソ連・イギリス・フランス)は拒否権が認められていました。
その為、東西冷戦後ソ連が拒否権を連発したことで、国際連合は力を発揮できなくなったのです。

東西冷戦の始まり

ヤルタ会談の取り決めでドイツは東側陣営(ソ連)と西側陣営(イギリス・フランス・アメリカ)で管理することになりました。
しかし、ヤルタ会談では良好だったアメリカとソ連の中は、アメリカの首相・ルーズベルトが亡くなりトルーマンが大統領になってから変わっていきました。
トルーマンはヤルタ会談後ソ連が急速に勢力を拡大させていくことからだんだんと敵視していくようになります。
その結果、アメリカとソ連の二大国の対立は軍拡競争となり、他の地域で代理戦争が発生しました。
ただ、アメリカとソ連が直接対決することがなかったため、「東西冷戦」と言われています。西ドイツと東ドイツの境目であるベルリンに設けられた「ベルリンの壁」は、東西冷戦の象徴になりました。

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まとめ

ヤルタ会談では、第二次世界大戦後の国際体制の礎ともいえるヤルタ協定によって作り出されたヤルタ体制が生まれました。
このヤルタ体制は、1989年12月2日から3日に地中海のマルタ島で行われたマルタ会談での冷戦終結宣言まで続くことになります。
第二次世界大戦後の平和な世界を目的としたヤルタ会談でしたが、結局は戦争を早く終わらせるための妥協だらけの協定となってしまいました。
その結果、今でも北方領土問題や朝鮮統一問題などが続いているのです。

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