1914年から1918年にかけてヨーロッパでは第一次世界大戦が繰り広げられていました。
そしてこの戦争はヨーロッパの体制を根本から崩すこととなり、現在にもつながる影響も残すことになったのです。
今回はそんな初の世界大戦である第一次世界大戦が起こった原因やその後の世界について解説していきます。
この記事の目次
第一次世界大戦とは何か?
第一世界大戦は今から約100年前の1914年7月28日から1918年11月11日にあったヨーロッパを主戦場とした戦争です。西洋文明が地球の裏側まで行きわたった1867年の明治維新からちょうど50年後のことです。
それまで欧米列強は世界で領地争い繰り広げてきました。そして、早くから領地を広げてきた国と遅れてきた国の争いが生じます。その結果、ほとんどの大国を含め世界の25か国を巻き込んだ人類史上初の世界大戦となったわけです。
第一次世界大戦のきっかけ
中立国があったとはいえ、世界が2つの陣営に分かれて行われた戦争はどのようにして始まったのでしょうか。その時代背景は、大国の名前やパワーバランスが違っていても、現在にも通じるものがあるのではないでしょうか。
帝国主義
当時の先進国の政策は植民地主義あるいは帝国主義といわれるものです。イギリスは3Cといわれるアフリカ南端のケープタウン、アフリカ北端のカイロ、インドのカルカッタを結ぶ地域を押さえようとする戦略を押し進めていました。
一方、ドイツは3Bといわれるベルリン、ヴィザンティウム(現イスタンブール)、バクダッドを結ぶ地域を押さえて中東、西アジアへの進出を企てました。当然、ドイツとイギリスは対立要因を抱え込むことになります。
この他にもフランスのアフリカ政策やロシアの南下政策も絡み合って欧米列強の間では波乱含みの状況を呈することになっていました。
サラエボ事件
欧州が波乱要因を抱えているときに、1914年6月28日にサラエボ事件が起きました。これはオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ大公とその妻ソフィーがサラエボ訪問中セルビア人に暗殺されたことをいいます。
これに怒ったオーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に報復の宣戦布告を発しました。これが第一次世界大戦の発端です。
利害が複雑に絡み合い、波乱含みの状況の中でいったんもめ事が起きると、周辺国や関係国はそれぞれの立場で一方を擁護し他方を非難することになります。
第一次世界大戦の流れ
第一次世界大戦の前には、一方に早くから世界進出を果たしていたイギリス・フランス・ロシアの三国協商があり、他方に遅れて出てきたドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟がありました。ただし、イタリアは、大戦時実質的に同盟から抜けていました。
オーストリアがセルビア王国に宣戦布告したとき、セルビア王国の後ろにはロシアが控えていました。加えてイギリスとドイツは対立関係にありました。オーストリアとセルビアの戦いから列強国は芋づる式に協商国側と同盟国側に別れることになります。
その結果、オーストリアはセルビアとロシアを相手に、ドイツはフランスとイギリスを相手に戦いが始まり、やがてヨーロッパ全土に、そして西アジアへ、さらにドイツの権益があるアフリカや中国、太平洋へと広がり、世界大戦に至りました。
塹壕戦が行われる西部戦線

ドイツは第一次世界大戦が起こるとロシアとフランスという二つの国に挟撃される恐れがありました。
そのためにドイツの参謀総長であった小モルトケによって修正シュリーフェン・プランが考案されることになります。このプランではまずは普仏戦争のように全力でフランスを攻撃してフランスを倒したのちにロシアと戦うというものでした。
ドイツはこのプランにのっとってまずは対フランスに戦力を割きます。しかし、ドイツ軍は中立国ベルギーを通ってフランスを攻撃しようとしますが、予想以上のベルギー軍の抵抗に苦戦します。また、想定以上にロシアの兵員動員が早く結局東部にも戦力を割かなくてはいけなくなりました。
そして 苦戦をしながらもドイツ軍は前進しますが、ついに戦線が膠着。こうしてドイツ軍もフランス軍も塹壕を掘り対峙するいわゆる塹壕戦が始まりました。
この塹壕は北海からスイス国境まで700キロにも及び、うっそうとした中、敵の砲弾をおびえる生活が始まるのです。
東部戦線とロシア革命

ドイツのシュリーフェン・プランよりも迅速に兵隊を動員したロシア軍は東プロイセンに侵攻します。
当初はロシアが快進撃を進めますが、ドイツ軍の指揮官がヒンデンブルクに交代しタンネンベルクの戦いに勝利。ロシア軍を東プロイセンから撃退することに成功しました。
こうして一気に劣勢となったロシアでしたが、戦争の重圧、インフレ率の上昇、さらには厳しい食糧不足により次第に民衆の不満が高まり、労働者や兵士の妻、女性の農民が首都ペトログラードでデモ行進を行い、これが二月革命に発展します。
これにより皇帝ニコライ2世が退位しロマノフ朝が滅亡。その後成立した臨時政府は戦争を継続することになりますが、その一方で労働者を中心とするソビエトが権力を持つようになっていきます。そしてスイスに亡命していたレーニンが十月革命を起こし彼が率いるロシア社会民主労働党のボリシェビキ(多数派の意味)が権力を奪取します。

その後ボリシェビキは「平和に関する布告」を発表。これを受けてドイツにかなり有利な条件でブレスト=リトフスク条約が結ばれロシアが第一次世界大戦から離脱します。
アメリカの参戦と戦争終結
東部戦線ではドイツの優位に進んでいましたが、西部戦線ではいまだにこう着状態が続いていました。そのでドイツはUボート(潜水艦)を使っ中立国の商船も含めて攻撃をするという無制限潜水艦作戦を行うことになります。
しかし、この無制限攻撃によってアメリカの商船が攻撃され、民間人にも被害が生じたためアメリカ世論が憤慨することに。これを受けてドイツは作戦を中止しました。
しかし、1917年にまたドイツは無制限潜水艦作戦を再開。アメリカとドイツの関係は悪化し、4月にはアメリカがドイツに対して宣戦を布告しました。
この当時にはすでに世界一の工業国となっていたアメリカが参戦したことによって情勢は一気に連合国側に傾くことになります。
こうした中、キールにある軍港の兵士たちが反乱を起こし、ドイツではドイツ革命が勃発。
この革命によって皇帝ヴィルヘルム2世は退位しドイツ帝国は滅亡し、共和政の国であるワイマール共和国が成立しました。
第一次世界大戦の特徴

人類史上初の世界大戦はその規模だけでなく、技術の進歩によって戦争の形や質においても変化が見られました。つまり、地球を覆う通商を可能にした技術は、通商にとどまることなく戦争にも影響を与えたわけです。
新しい武器としては、飛行機、潜水艦、さらに毒ガス兵器が出現しました。飛行機によって前線のおける線の戦いから面の戦いへ、また飛行機と潜水艦によって平面の戦いから3次元の戦いへと変化しました。
さらに飛行機や毒ガスの出現は、後方部隊や戦争に従事していない一般市民をも巻き込む大量殺戮をもたらすことになります。
現代でいえばITによるものが新しい戦争の形かも知れません。
講和と国際連盟の結成
1919年1月18日パリで行われた戦勝国(連合国)の首脳会議で、講和条件とともに新たな国際体制も討議されました。
この結果、ドイツには膨大な賠償金とその保障のためにこの当時ヨーロッパ最大の工業地帯であったラインラントが非武装地帯になることが決められました。
その後、ドイツは賠償金の支払いに悩まされることになり、経済は崩壊。国内では未曽有のインフレが発生することになりました。
そして経済不安から政情不安にもつながることになり、世界恐慌後ヒトラー率いるナチスが台頭し、第二次世界大戦へとつながっていくのです。
またこの時に史上初の国際平和機関として発足したのが国際連盟です。しかし、国際連盟は長くは続かず1946年4月20日に解散。その間わずか26年でした。
国際連盟は、一部の紛争には国際平和機関としての役目を果たしたといわれています。しかし、途中からは脱退する国や除名される国も出て期待したほどにも世界平和に貢献しなかったというのが歴史的評価です。
日本における第一次世界大戦
日本とヨーロッパは地球の裏と表です。日本も第一次世界大戦に参戦しているが、その経緯はどのようなものだったのでしょうか。もし当時大国の一員であった日本が第一次世界大戦に参戦していなければ、あるいは世界大戦という命名には至らなかったかもしれません。
日英同盟
第一次世界大戦前の当時は帝国主義の時代であるため、列強は国土や植民地の拡大に努めていました。大陸へ進出したい日本と南下したいロシアの間は緊張関係にありました。
そこで1902年1月30日、利害の一致するイギリスと対ロシア政策の一環として日英同盟を結びました。同盟締結後1904年に日露戦争が起きています。
第一次世界大戦の当初、日英同盟はこの大戦には適用されないことで日英ともに合意し、したがって日本は中立の立場をとっていました。
中国、太平洋諸島
一度は中立国として合意していた日英同盟ですが、イギリスはドイツの東洋艦隊の動きを警戒して、日本に参戦するよう要請してきました。大陸へ進出する足がかりが欲しい日本は、結局参戦します。
日本はドイツに宣戦布告後、1914年11月7日、中国におけるドイツの租借地である青島と膠州湾を攻撃し占拠。さらには太平洋諸島においてドイツが権益を持っていたマリアナ諸島やマーシャル諸島などをも占領しました。
日本の参戦とその後のアメリカの参戦で文字取り世界大戦となりました。
成金の誕生
第一次世界大戦がはじまると、日本国内は一時的に不況に陥りましたが、1915年には米英仏をはじめとする連合国から兵器や軍需品、食料などの注文が増えました。
日本は戦争のダメージをほとんど受けておらず、船舶や生糸を中心に輸出が増加。アメリカの次に利益を上げることに成功します。
その結果日本では大戦景気が起こり、舟成金といった成金が登場しました。
まとめ
歴史は繰り返されるという名言があります。技術が進歩して、表舞台に出る国が変わっても、それをつかさどる人間に変わりはありません。
見た目には初めての状況に思えても、本質的な構図は歴史上の出来事と変わらないと名言は教えてくれます。
第一次世界大戦は主戦場となったヨーロッパの没落、ソ連の建国、大きな痛手を受けなかったアメリカや日本の地位が上がるなど、歴史上大きな影響を与えました。そしてその影響は今も与え続けているのです。