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世界史 政治用語

ワイマール憲法ってどんな憲法?内容からどうしてナチス政権が生まれたのかについてわかりやすく解説!

2020年9月8日

国にはそれぞれそのあるべきかたちを顕した規範があります。多くの場合、国の統治のかたちであったり、その下で保証された国民の権利や義務を明文化していますが、その時々の内外環境の変化や時代の趨勢に合わせて変化していくこともあります。

しかし、規範は適切に使わなければとんでもない結果を招きます。特に約100年前のドイツで誕生したワイマール憲法は当時最も民主的な憲法と呼ばれていましたが、とある大きな落とし穴があったために一気に独裁へと突き進んでしまったのです。

今回はそのワイマール憲法を見ていきましょう。

ワイマール憲法とは

ワイマール憲法の表紙

ワイマール憲法とは第一次世界大戦後のドイツ共和国において、社会民主党のエーベルト臨時大統領の下、1919年7月31日に制定された憲法です。

なおワイマール憲法のワイマールとはドイツ・チューリンゲン州にある都市の名前です。

20世紀初頭における人権の保障とは人身の自由や財産権といったような国から干渉されない国家からの自由というものでしたが、ワイマール憲法はもう一歩踏み込んで生存権を定めて国が積極的に弱者救済を行う人権を導入しています。

そのためこのワイマール憲法は当時世界で最も民主主義的な憲法ともいわれていました。

ワイマール憲法の成立 帝政ドイツからドイツ共和国へ

ワイマール憲法が制定されたのは1919年、ベルサイユ条約が結ばれた少し後になります。

これ以前のドイツはフリードリヒ2世を戴く帝政ドイツであり、帝政ドイツの崩壊と新生ドイツを象徴するのがワイマール憲法と呼ばれるものでした。

帝政ドイツ崩壊の背景にあったのが第一次世界大戦で、そのきっかけとなったのが世に言うサラエボ事件です。オーストリアの皇位継承者がスロバキア人によって暗殺された事件です。ドイツはオーストリアと共に参戦、ロシアとフランスも対ドイツ戦線を組み、火種はヨーロッパに拡大していったのでした。

膨大な死傷者を出して戦争が終結した後に、敗者となったドイツに課されたのが先に述べたベルサイユ条約で、ドイツは軍備に対する制約や海外領土返還、巨額な賠償を負うことになります。あまりにも過酷な条約についてアメリカが仲介を試みますが、以前から領土問題等で紛争を抱えるフランスの反対もあり、条約は承認されることになりました。

ベルサイユ条約に対するドイツ国民の不満は大きく、その矛先は当然ながら統治者に向けられることになります。ドイツ共和国議会はこれ以降何度も入れ替わり、統治能力を失っていきます。

またアメリカ発の恐慌がヨーロッパにも飛び火したことで労働者を始めとする国民の不満が爆発し、ドイツ共和国はヒトラーをリーダーに据えた独裁国家へと舵を切っていくことになるのです。

もっとも民主的だったワイマール憲法

ワイマール憲法は時代の先端をいく、もっとも民主的な憲法だと言われています。

当時、最も民主的と言われた内容のポイントは以下のようになります。

ポイント

 ・主権在民(第1条)
・議会制民主主義(第20条)
・男女平等の普通選挙(第21条)
・社会権(第151条、第153条、第159条等)
・大統領制

ドイツで初めて君主制を撤廃し、また旧個族や貴族の政治的影響力を縮小させ、市民出身者が政界に加われるようになりました。

そして、この憲法におけるもっとも画期的な点は、労働基本権や教育を受ける権利、生存権等基本的人権の「社会権」の保証を明記したことにあります。この中でも特に重要なのが第151条で定めている「生存権」だといわれています。

その第151条には「経済性格の秩序は、すべての人に、人たるに値する生存を保証することを目指す、正義の諸原則に適合するものでなければならない。」と明記されています。

これは、それまでの近代国家が憲法に盛り込んだ、思想や表現の自由を保障する「自由権」のように、国家が個人の領域に過度に干渉しないことをよしとする傾向と違い、市民が人間の尊厳を保って生活できるように経済活動や国民生活への介入を認める福祉国家を目指すという考えの現れです。そして、この理念は以降に制定される諸国家の憲法にも大きく影響を与えることとなりました。

我が日本国憲法においても、第25条に「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保証している点や、公共の福祉に反しない範囲での経済活動の自由等の記述は、ワイマール憲法の第151条の内容とほぼ一致します。

ワイマール憲法の落とし穴

これほど民主的で素晴らしいワイマール憲法が十分に機能せず、ヒトラーとナチスの独裁に利用されることになった要因はどこにあったのでしょうか。

この憲法の問題点の一つに、選挙の比例代表制があります。より民意を反映させる(死票を抑えられるとされる)ために採用したのですが、かえって小党分立による政党政治の混乱を生み出し、そのことがナチスの台頭を許したと考えられます。

さらにワイマール憲法の中には「国家の非常事態、社会秩序が乱されるような事態」が起こった場合について、規定されている条文があります。

メモ

ドイツ国内において、公共の安全及び秩序に著しい障害が生じ、または、公共の安全及び秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる。

この目的のために、大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(親書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の自由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、及び第153条(所有権の保証)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる。

上記のような非常事態に際しては、ドイツ共和国大統領の権限において国民に与えられたさまざまな権利を停止することができる、武力行使も排除しないことが明記されていたのですね。

隣接するフランスとは領土紛争の火種は消えず、ソ連に代表される共産主義への警戒も解くことはできない。四方を海に囲まれた日本では想像しにくい部分がありますが、国家を揺るがす非常事態にあって迅速な判断と対応を可能にしたいということでは理解できる部分ではあります。

当時のドイツ共和国大統領はヒンデンブルクで、共和制よりは君主制を志向し、ハイパーインフレや高い失業率による生活苦に苦しむ労働者の支持を増やしていたヒトラー率いるナチスを利用しようとして、逆に利用されることになったことがワイマール憲法を抱えるドイツ共和国にとって致命的な結果へとつながっていくことになります。

憲法の形骸化とヒトラー帝国の誕生

憲法の自壊への道筋

1930年、当時のヒンデンブルグ大統領は社会民主党内閣が世界恐慌に対応できずに辞任した後、大統領緊急命令権によってブリューニングを首相に任命しました。この大統領緊急命令はワイマール憲法に規定されているものであり本来、国会によって指名されるべきところを大統領が任命してしまうことで、議院内閣制は停止し、憲法に従って憲法の一部を停止してしまうこととなりました。その後、1932年の選挙で第1党となったナチ党のヒトラーを1933年1月、首相に任命されヒトラー内閣が成立しました。

政権を握ったヒトラーは、その年の2月にヒンデンブルグ大統領名の「人民と国家防衛のため」の緊急令を発布し「憲法第48条」を行使しました。問題点であった憲法自らの条文により、ワイマール憲法の最も優れた点であった基本的人権を尊重した規定が大きく制限されることになりました。

さらにその年3月の総選挙で第1党となったナチ党は、単独過半数ではなかったのですが、もう一つの右翼政党であるドイツ国家人民党と連立することで過半数を確保。

その国会で、ヒトラー内閣は政府が議会の決議なしに法律を制定できる「全権委任法」を提案し成立させました。これして、国会により国会の立法権を放棄するという自殺行為が起きてしまいました。

そのうえ、翌1934年にはヒンデンブルグ大統領の死去によりヒトラーは首相兼大統領の権限を持つ総統に就任。これによって国民の直接選挙で選出する大統領制は消滅しました。このことにより、ワイマール憲法は完全に崩壊することとなりました。これ以降、ドイツ共和国は実態のない、ただ一人の独裁者が支配する帝国へと突き進んでいきます。

ゲルマン民族の不満心理が生んだ第三帝国

なぜ、当時世界で最も民主主義的な憲法であったワイマール憲法の下で、このような反民主主義的な国家が出来上がってしまったのでしょうか。それは、先にも触れた「憲法第48条」の規定が悪用されてしまったからです。

ここで学んでおかないことはヒンデンブルグもヒトラーも憲法に違反したわけではないということです。むしろ、憲法のお墨付きで強大な権限を手にしました。

もちろん、ワイマール憲法草案の起草者であるフーゴー・プロイス自身がそうなることを望んで規定したわけではありません。しかし、結果的にこの条文があることにより憲法によって憲法の効力を制限あるいは無効化させてしまうという矛盾が起こりました。そして、それらの事柄が独裁者を誕生させてしまう原因の一つとなったのです。

また、第一次世界大戦の敗戦でドイツの民衆は自信を喪失していました。ヴェルサイユ条約により多額の賠償金も課せられ、経済的にも困窮していました。そのうえ、追い打ちをかけるように世界恐慌に襲われました。そのような社会背景の中で、ヒトラーはヴェルサイユ条約に縛られた体制の打破と、ユダヤ人の排斥、共産主義の危機を訴え、ゲルマン民族の優越性を強調して、民族心理に巧みに訴えかけることと彼自身の持つカリスマ性もあり、支持を拡大していきました。
このように、当時の社会背景の中で、ゲルマン民族の誇りがヒトラー帝国を生み出す原因の一つでもありました。

素晴らしい憲法を死文化しないために

ワイマール憲法は現代の眼から見ても、色褪せることのない素晴らしいものです。その素晴らしい憲法は残念ながら、素晴らしい未来を創り上げることはできませんでした。時代的な背景があったことはもちろんですが、ここから何の教訓も引き出せないでは先人の苦悩をゴミ箱に棄てるも同然です。

ワイマール憲法は当初の理念とは裏腹に、また時代的な要因もあって独裁政権に利用され、真に活かされることはありませんでした。歴史が与えてくれたこの教訓を、私たちは今一度かみしめてみる必要があるのかもしれません。

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