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世界史

ベトナム戦争はなぜ起きたの?原因や内容、その後を分かりやすく解説!

2020年5月24日

歴史の授業で1度は耳にしたことがあるベトナム戦争。第二次世界大戦後の混沌とした世界情勢で難しく思った人もいるでしょう。

ベトナム戦争は1955年11月から1975年4月にかけてインドシナ半島で起きた戦争です。原因は、北ベトナムと南ベトナムの内戦でした。

アメリカや中国、ソビエト連邦がこの戦争に関与し20年にも渡りたくさんの犠牲者をだしました。

なぜベトナム戦争が起き他の国々が関与してきたのか、原因や結果を分かりやすく解説していきます。

なぜベトナム戦争は起きたの?

20世紀前半、ベトナムを含むインドシナ半島はフランスの植民地支配を受けていました。ベトナム戦争はベトナムが独立した時から始まっていたのです。

まずはベトナム戦争に至る前の歴史を振り返ります。

ベトナムの独立

ホー・チ・ミン

19世紀後半になるとアジア全体は欧米列強によって次々と植民地化されました。ベトナムも例外ではなくベトナム・ラオス・カンボジアなどのインドシナ半島はフランスが支配する仏領インドシナとなりました。

フランスは総督府をハノイに置きベトナムを統治してこのインドシナ半島一帯をフランスはメコン川下流のデルタ地帯で輸出用の米を栽培させました。

しかし支配を望まず独立を目指したベトナム人は明治維新を達成した日本を目指し日本に留学生をおくる東遊(ドンズー)運動が活発化します。

そして今回の主人公のホー・チ・ミンも1919年にフランス社会党に入党。政治活動を本格化させ、1920年代にはいるとホー・チ・ミンと呼ばれる指導者が社会主義国家を樹立するために活動を開始することになります。

そして1940年に入るとフランス本国がナチスドイツに占領されることに。そのさなかに日本がインドシナ半島に進駐してきたのです。

この情勢を活用すべくホー・チ・ミンはベトナムに帰国。一時期中国国民党によって逮捕され牢獄で過ごすこともありましたが周恩来の助けで釈放されます。

1945年8月、日本が降伏しフランス領インドシナが無政府状態になるとホー・チ・ミンはベトナム民主共和国の独立を宣言しハノイなど主要都市を占拠しました。しかし本国を回復した旧支配国のフランスは独立を認めません。フランスは支配の継続を狙いました。

こうして、ベトナムとフランスはインドシナ戦争へと突入したのです。

インドシナ戦争

ホー・チ・ミンの独立宣言を認めないフランスは支配権回復のため軍を派遣し1946年からインドシナ戦争がはじまりました。

もちろん支配国のフランスのほうが兵力も装備も優位ではあったのですがベトナム軍はジャングルを盾にしたゲリラ戦法を駆使してフランス軍に長期化と消耗を強います。また、社会主義の拡大を望んでいたソ連の支援も受けたことでフランス軍に抵抗しました。

そのおかげで戦争は膠着状態となり、フランス軍の中に厭戦気分が蔓延します。

事態の打開を図るためフランスは傀儡国家のバオダイをベトナム国を樹立しましたが。1954年5月に戦局打開を狙うフランス軍はディエンビエンフーを制圧しようとしたフランス軍をベトナム軍が包囲攻撃を行って降伏に追いやります。

これが決定打となり同年にジュネーヴ休戦協定が結ばれフランスはベトナムを含むインドシナ半島の支配をあきらめ、北緯17度より北の領土をフランスから奪還することに成功しました。

ベトナム戦争の始まり

これにより北のベトナム民主共和国と南のベトナム共和国の2つに分裂しました。ベトナム民主共和国はフランスからアメリカに支配が変わった南ベトナム共和国の解放を宣言します。「南ベトナム解放民族戦線」という部隊を結成し統治を巡り争うようになりました。

こうしてベトナム戦争は始まったのです。

南北ベトナムの成立

1954年、スイスのジュネーヴでインドシナ戦争の休戦を協議するジュネーヴ会議が開催されましたが、アメリカは最終宣言への参加を拒否。アメリカは南ベトナムにゴー=ディン=ディエムをトップにおいて資本主義国家のベトナム共和国(南ベトナム)を成立させました。

フランス撤退後のベトナムにアメリカが介入した理由は、この当時アメリカが冷戦でソ連と対抗したからです。

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アメリカは南ベトナムが北ベトナムに併合されれば社会主義陣営が東南アジアで一気に拡大するとする「ドミノ理論」を根拠にしてこの南ベトナムを社会主義の防波堤にしようと考えていたのです。

しかし、南ベトナムでは北ベトナムの支援を受け反米・反親米政権を掲げる解放戦線のゲリラ戦術のため政情が不安定化。アメリカは解放戦線を倒すためにはその背後にいる北ベトナムを排除するしかないと考えました。

トンキン湾事件

1964年8月にジョンソン大統領はベトナムのトンキン湾を航行中のアメリカ軍駆逐艦が北ベトナム艦の魚雷攻撃を受けたことと、反撃のため北ベトナムを爆撃したことを発表しました。

これを受けてジョンソン大統領はアメリカ議会に対し「あらゆる手段をとる」ための権限を与えるよう要請。アメリカ議会は圧倒的多数でこれを認めました。この決議は事実上、アメリカから北ベトナムへの宣戦布告となります。

こうしてベトナム戦争は始まったのです。

アメリカの汚点『北爆』

トンキン湾事件への報復として始まった北ベトナムへの戦争は一気に加速していくことになります。

アメリカはベトナムのゲリラ兵をどうにかして倒すためにアメリカの圧倒的パワーでジャングルを焼き払って倒そうとしようとします。このジャングルへの絨毯爆撃を北爆といいます。65年から68年にかけて行われた北爆でアメリカ軍は223万トンもの爆弾を投下。第二次大戦時の日本への使用量が16.4万トン、独伊両国でも200万トンという数字を考えればいかに屈服させたかったのかがわかります。

ベトナム人の死者・行方不明者は6万人に達しました。しかし、アメリカ軍も無傷ではすまず1000機ほどの航空機を失いました。

こうして、アメリカ軍は圧倒的物量で北ベトナムを屈服させようとしたのです。

戦争の長期化

アメリカはただ単にジャングルを焼き払うだけではなく本格的に北ベトナムに侵攻するために20万人もの地上軍を派遣します。

アメリカ軍はナパーム弾や枯葉剤などを使用して解放戦線を倒そうとしますが、南ベトナム解放戦線はやはりジャングルに立てこもりゲリラ戦を展開。さらにはホーチミンルートを使って解放戦線は隣国のカンボジアを通じて北ベトナムから支援物資を受け取り、ゲリラ戦を有利に展開します。

アメリカはホー・チ・ミンルート遮断のためカンボジアやラオスまで空爆をおこない戦争をベトナムだけではなくインドシナ半島全体に拡大しました。

しかし大量の爆弾投下と兵士の派遣によってアメリカの財政を圧迫します。

これはまずいと思った大統領となったニクソンはベトナム戦争終結のチャンスを探し始めました。

テト攻勢と反戦ムードの拡大

粘り強く抵抗する北ベトナムでしたがただ抵抗したわけではありません十分な反撃計画も行っていました。その計画がテト攻勢です。

テトとは、ベトナムで旧正月の祝日を表す言葉で基本的にはこの日に攻撃していませんでした。しかし、これを逆手にとって「攻撃しないであろう」としたこのテトの日に総攻撃を開始したのです。

北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線はアメリカ軍や南ベトナム軍に大攻勢を仕掛けました。北ベトナムと解放戦線は南ベトナムの各都市で重要拠点を襲撃。アメリカ大使館を一時占拠するなどアメリカと南ベトナム軍に打撃を与えます。

結局、反撃により失敗しましたがこの構成のおかげでアメリカは一方的な優勢ではなく北ベトナムと解放戦線の力が強力であることを世界に印象付けました。

また、南ベトナムの警視総監が路上で解放戦線の捕虜を拳銃で即決処刑した様子がマスコミによって世界に報道されるとアメリカや南ベトナムに対する非難が高まります。戦争の悲惨な様子がテレビを通じてアメリカ国民がしり、アメリカの学生の中から反戦集会を行い始めカリフォルニア大学バークレー校やコロンビア大学・ハーヴァード大学でも反戦運動が開催。テト攻勢後には反戦運動は全米に拡大しました。

学生の徴兵免除がなくなり政府から配布された徴兵カードを焼き捨てて抵抗の姿勢を示し、デモはさらにヒートアップ。さらにはアメリカだけではなくベトナム戦争に支援している国々までそのデモは広がっていきました。

ベトナム戦争の結果とその後

1975年3月以降、サイゴン陥落までの北ベトナム軍の攻撃の経緯を表した地図(Wikipediaより)

1972年、泥沼化していたベトナム戦争を何とか終わらせるために北ベトナムと同じく社会主義国であった中国をニクソン大統領が電撃的に訪問します。加えてソ連も訪問し大国間での話し合いを加速させます。

そしてついにアメリカは1973年パリでベトナム和平協定が結ばれました。アメリカ軍の撤退が正式に決められ順次撤退することになりました。

アメリカの後ろ盾のない南ベトナム政府なんて怖くなんてありません。北ベトナムは最後のダメ押しとばかりにホー・チ・ミン作戦を実施。次々と南ベトナムの重要拠点が陥落してついに1975年4月、南ベトナムの首都サイゴンが陥落します。

南ベトナム政権の重要人物はアメリカに亡命し政府は崩壊。ベトナム戦争の終結とベトナムの独立と南北統一は果たされました。

なぜベトナムは強かったのか?

南ベトナム解放民族戦線の旗

ベトナム戦争は、アメリカが負けた唯一の戦争だと言われています。アメリカが支援した南ベトナム共和国が負けた要因がいくつかあります。

1つめは、士気の差です。

ベトナム民主共和国は、ホーチミンが率いたインドシナ戦争で多大な犠牲を払って領地を手に入れました。実質、戦争に勝利しましたが、国の半分しか得ることが出来なかった悔しさと絶対に祖国を統一する強い愛国心がありました。

それに対して、南ベトナム共和国は、アメリカに支配された傀儡国家でした。大統領に就任していたゴ・ディン・ジエムは独裁政治を展開し、国民は国を守ろうとする愛国心はありませんでした。この両者の士気の差が結果に結びつきました。

2つめは、ベトナム民主共和国と協力した南ベトナム解放民族戦線の活躍です。

政府に反対する南ベトナム共和国の人々によって南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)が結成されました。独裁政治により家族や仲間が政府に投獄、拷問を受けるなどされていました。この恨みは非常に強く、ゲリラ戦で相手を翻弄し大活躍しました。

べトナム戦争はまだ終わらない

この戦争では、お互い巨額な資本が投資され歴史的な負傷者と死者がでました。

その後ベトナムでは社会主義を改善したドイモイ政策が行われることになります。その後1993年2月にベトナムとフランスが和解。さらにベトナム戦争から15年後の1995年7月にはクリントン大統領がベトナムの国家の承認と外交関係樹立を発表し、ベトナムとアメリカが和解しました。

こうして国家間での問題はなくなりましたが、民間レベルでの問題はいまだに解決することはありません。

1969年には、アメリカ軍がソンミ村の女性や子供を含む500人を虐殺したソンミ事件はアメリカ内外で問題となりました。

また、ベトナムにはジャングルが多かったためアメリカが枯れ葉剤を使用しました。

目的は、ジャングルの絶滅と農作物の汚染でした。散布した枯れ葉剤には、催奇性や発がん性を持つダイオキシンが含まれていました。その影響により外形的障害、遺伝疾患やがんなど重篤な疾患を持つ子供が生まれるなど社会問題となりました。

戦争が終わり平和に見える現代でも、この問題は解決していません。現在も2世、3世と枯れ葉剤の影響を受けています。そういった意味ではまだ戦争は終わっていないのかもしれません。

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