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世界史

ウィーン体制って何なの?内容やその後などわかりやすく解説!

大量の死傷者を出したナポレオン戦争。

結局ナポレオンの失脚にて終結したのですが、その戦後処理がウィーン会議と呼ばれる会議でした。そしてこの会議で決められた体制は19世紀のヨーロッパの枠組みとなっていくのです。

ここではウィーン体制についてウィーン会議、ウィーン議定書の関係をはっきりさせたうえでくわしく分かりやすい解説をします。

ウィーン体制とは?

ウィーン会議の様子

ウィーン体制とは、19世紀前半にヨーロッパで行われた政治体制です。
その指導者がオーストリアのメッテルニヒだったのでメッテルニヒ体制とも呼ばれます。

この体制の目的は「混乱していたヨーロッパをフランス革命以前に戻し、戦争が起こるのを防ぐこと」です。
この目的を達成するために、各国の王様が同盟を結び、自由主義やナショナリズムの運動を抑圧しました。また、国同士の揉め事を外交で平和的に解決するようにしていたため、30年以上ヨーロッパ社会を安定させることに成功しました。これは、当時のヨーロッパでは考えられないことです。

しかし、しだいに自由主義やナショナリズムの運動が拡大し、1821年に「ギリシア独立戦争」、1848年に「二月革命」や「三月革命」などの革命が起こったことによりウィーン体制は崩壊し、終わりを迎えました。

ウィーン体制について詳しく見てみよう!

ウィーン会議の中心となったメッテルニヒ

では、ウィーン体制のきっかけからウィーン体制の崩壊までを丁寧に見ていきましょう。

ウィーン体制のきっかけになったウィーン会議

1814~1815年に「ウィーン会議」が行われました。
この会議の目的は、「フランス革命」と「ナポレオン戦争」が終わった後「どの国がどの領土を所有するか」と「どのようにしてヨーロッパを安定させるか」です。
オーストリアの外相メッテルニヒを議長として、オーストリア、ロシア、プロイセン、フランス、ローマ教皇などのヨーロッパの国々の代表が集まりました。
しかし、各国の代表は自分の利益を優先するあまり他国の利害と衝突してしまい、会議がほとんど進みませんでした。無駄に時間だけが過ぎていくので「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されました。

なかなか進まない会議でしたが、1815年2月にエルバ島からパリに戻ったナポレオンが復位することを宣言すると、それにあわてた各国の代表は他の国と協力し、1815年6月9日に「ウィーン議定書」が締結されました。

正統主義と勢力均衡

このウィーン会議でウィーン体制のもととなる「正統主義」と「勢力均衡」が主張されました。

正統主義とは、フランスの首相タレーランが提唱したものです。ヨーロッパの秩序をフランス革命以前の状態に戻すというもの。つまり、「絶対王政」の復活です。
この提唱はウィーン会議の理念とされ、ウィーン議定書にまとめられることになります。
勢力均衡とは、大国同士が関係を強めることによって戦争が起こることを防ぎ小さな反乱は武力で抑えようというものです。

この考え方にのっとり、イギリスを除く主なヨーロッパの王様が加盟した「神聖同盟」とイギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアが加盟した「四国同盟」が結ばれることになります。四国同盟はのちにフランスも加盟し「五国同盟」になります。

各国の影響

ウィーン体制後のヨーロッパ

こうして結ばれたウィーン会議でしたがこの会議によってその後のヨーロッパにはどのような影響を与えたのでしょうか?

次は各国の取り決めについてみていきましょう。

オーストリア帝国

議長国のオーストリア帝国はナポレオン戦争のときに失った領地を回復。また、イタリア北部のロンバルディアと旧ヴェネツィア共和国領を獲得しました。崩壊した神聖ローマ帝国に代わって35君主国と4自由市で構成されるドイツ連邦を成立させてオーストリア皇帝が議長として影響力を持つことになりました。

しかしのちにドイツの統一方法でプロイセンと対立することとなります。

ロシア帝国

ロシアは基本的に領土拡張を大幅に認められました。

ロシアはスウェーデンから獲得したフィンランドに建国し、ロシア皇帝が大公を兼ねるフィンランド大公国が国際的に承認。

さらにはオスマン帝国からベッサラビアを、ポーランドの大部分をポーランドを事実上のロシア領(第四次ポーランド分割)にしました。

プロイセン王国

プロイセンはドイツの地域のザクセン北半分、西ポンメルン、ラインラントなどを獲得しました。しかしもともと支配していたワルシャワ地域はロシアにとられることとなり、プロイセンから見たらかなり不満が残る展開となりました。

しかし、のちにラインラント地域から大量の石炭が見つかるとラインラントは工業地帯として大きく発展。プロイセンの工業化へとつながることとなり、国家の原動力となりました。

フランス王国

敗戦国であるフランスですがタレーランの辣腕によってナポレオン戦争で手に入れた領地は手放すことになったものの、本国の領土は維持することとなります。

国内では処刑されたルイ16世の弟であるルイ18世が即位してブルボン朝が復活。フランス革命前の状態を回復することになりました(フランス復古王政)。

ウィーン体制中のヨーロッパは本当に平和だったの?

七月革命

四国同盟(後の五国同盟)により勢力均等が保たれたので、ヨーロッパの状態はしだいに安定していきます。

しかし、ウィーン体制はフランス革命前の絶対王政を維持しようという考えだったので、その反対の考え方である自由主義やナショナリズムの運動は抑圧されました。しかし、この抑圧に反抗する自由主義やナショナリズムの人たちは運動を各地で起こし始めます。

まずは、1817年にはドイツでブルシェンシャフトと呼ばれる学生組織が、1820年にはイタリアでカルボナリが蜂起しました。
さらに、1820年に憲法制定を求めたスペイン立憲革命が起こり、ロシアでは1825年に青年将校がロシアの政権と体制を打破するためにデカブリストの反乱を起こします。

また、1830年にはフランスで「七月革命」が起きてブルボン復古王政が倒れ七月王政が成立します。

これが火種となりオランダからベルギーが独立し、ロシアの支配に抵抗するポーランドの反乱、ドイツでは憲法の制定と統一を目的としたドイツの反乱が起こりました。この時、北イタリアのオーストリアからの解放とイタリアの統一を目的としたイタリアの反乱も起こっています。

しかし、これらの反乱はすべてオーストリア、フランス、ロシアの軍隊によって鎮圧されました。
ウィーン体制はヨーロッパの安定をもたらしましたが、実際のところは国同士の目立った戦争がなかっただけのことで、実際は平和と言えるものではありませんでした。
また、自由主義やナショナリズムの運動はいくら鎮圧してもつぶれることはなく、その運動は各国に広がり、やがてウィーン体制は終わりを迎えることになります。

ウィーン体制が崩壊するまで

ウィーン体制が崩壊する大きなきっかけは1821年に始まった「ギリシア独立戦争」です。
ギリシアは1453年以降オスマン帝国の支配下にありましたが、フランス革命の影響を受けて自由主義とナショナリズムの運動が広がり、独立を求める戦いが始まりました。
これに対し、オーストリアのメッテルニヒは自由主義運動の拡大を恐れて独立に神聖同盟としても反対しました。しかし、ロシアのニコライ1世は、「南下政策」に基づいてギリシアを支援。イギリスとフランスも支援しました。

そして、1827年「ナヴァリノの海戦」でイギリス・フランス・ロシアの連合艦隊とオスマン帝国・エジプトの連合艦隊が衝突します。その結果、オスマン帝国・エジプト連合艦隊が全滅しました。これにより、オスマン帝国はギリシアの独立を認めました。

このギリシア独立戦争の一連の流れを見ると、ウィーン体制で結束していたはずの各国にズレが生じてきていることが分かります。

また、ウィーン体制が終わった原因となるのは1848年にフランスで起きた「二月革命」です。この革命でフランスに第二共和政が成立します。
これは、産業革命の波及で各国の資本主義化が進み、今まであまり力がなかった市民・労働者層が力をつけてより強く自由と国民による国の統合を求める運動が起こったことが主な原因でした。

この革命が各地に広がり、ベルリンとウィーン(オーストリアの首都)の「三月革命」が起こり、ウィーンではウィーン体制の指導者メッテルニヒが失脚、オーストリアの支配下にあった諸民族が自立する「諸国民の春」と呼ばれる動きが続きウィーン体制は終わりを迎えました。

まとめ

結局、ウィーン体制は崩壊してしまいました。やはり、武力で作られたうわべだけの平和は長くは続きませんね。
しかし、この体制が成功して今も続いていたら世界は絶対王政が主流になっていたかもしれません。そう考えると恐ろしいですね。
また、このウィーン体制では何度も自由主義とナショナリズムの運動が押さえつけられましたが、押さえつけられた人々は諦めることなく何度も戦い続けウィーン体制を崩壊させました。人々が戦い続けてやっと得られた国民主体の国づくりと言えるのです。

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