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世界史

無血で民主化を成し遂げたビロード革命とは?チェコの歴史から革命についてわかりやすく解説!

2020年8月26日

冷戦が終結した当時チェコスロバキアでは共産党支配のもとで西側圏とは違う生活水準に不満を抱く市民が多く、共産党を打倒して改革を求めようとする機運が高まっていました。
そしてこの改革を求める運動によってチェコスロバキアは民主化を成し遂げたのです。
本記事では、チェコスロバキアの近代史を交えながら、ピロード革命によって変貌していくチェコとスロバキアの様子を解説します。

ビロード革命とは?

ビロード革命とは、1989年に当時のチェコスロバキアの共産政権を反体制を批判するヴァーツラフ・ハベルを先頭に、市民や学生らのデモによって無血で崩壊させた革命です。この革命は大量の流血に至る事態は起こらなかったことから、軽く柔らかなビロード生地にたとえて名付けられました。

時を同じくして、ドイツを東西に分断していたベルリンの壁が崩壊し、チェコスロバキアでも民主化を求める動きが活発になっていったのです。

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強国の争いの場となるヨーロッパ諸国

チェコスロバキアは、1918年に現在のチェコとスロバキアで構成された共産国家で、トマーシュ・ガッシュ・マサリクを初代大統領とする暫定政権を設立しました。
このヨーロッパの小国は、ドイツ、ポーランド、オーストリアなど当時の強国に囲まれ、自らが政治制度や社会制度を決められる自決権を有しない時代が長く続きました。
ヨーロッパ諸国は、キリスト教の7年戦争や30年戦争を経て、ウェストファリア条約で精神的な近代化に至るまで、宗教や民族が対立する地域であり、チェコスロバキアも混沌とした時代の渦に中に巻き込まれていました。
宗教戦争や覇権争いの影響はウェストファリア条約以後もヨーロッパ諸国全土に及び、諸領主国、帝国諸列強国に支配されていました。

抑圧的な支配が続く東側諸国

20世紀に入り、第一次世界大戦が終結すると、ヨーロッパ中東の各地域では民族自決運動が起き、チェコとスロベニアもそれに同調し民族自決の道を歩み出しました。
しかし、第二次世界大戦が近づくと、ヨーロッパ各地域にナチス・ドイツの影響力が及ぶようになり、チェコは事実上ナチス・ドイツの勢力下におかれることになります。
その後、第二次世界大戦が終結に向かう1945年に入ると、大規模な抵抗運動が起き、ドイツの勢力下を抜け出したチェコスロバキア共和国は再興を果たしました。
ところが1948年、第二次世界大戦でドイツが破れると、同年に起きた2月事件で共産党が実権をにぎり、ソビエト連邦による支配がはじまりました。

チェコスロバキアはチェコスロバキア社会主義共和国として、再び共産国家として歩むことになったのです。
しかし、チェコは首都プラハを中心に近代工業が進んでいたこともあり、早くから民主化運動が頻発するようになります。
市民の間にも貧しい生活や自由のない暮らしへの不満が高まり、1960年に文芸家ら知識人や学生が大規模な民主化運動を起こし、ますます政府に自由を求める民主化運動は広がっていきました。
この運動が1968年の民主化運動「プラハの春」を引き起こし、その後のビロード革命へとつながっていくことになります。

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ビロード革命の立役者となったヴァーツラフ・ハベル

ヴァーツラフ・ハベルは劇作家出身の文化人としても知られ、1986年に反体制派を結集して結成した市民フォーラムを率いてビロード革命の主役となりました。
1936年にプラハで生まれたハベルは、高等専門学校を経て軍に入隊し、工兵として奉職を務め、その傍ら劇団を立ち上げて演劇活動をおこないました。
除隊後は演劇批評の分野で活躍し、1968年のプラハの晴に際しては、卓越した指導力で反体制運動の指導者として活動しました。
1977年には、言論の自由などを提唱した、いわゆる「憲章77」を起草したことから、以後、数回にわたり逮捕、投獄されています。
憲章77では、言論の自由、信仰の自由、結社の自由、法のもとでの平等が共産体制では著しく損なわれていると訴え、当時のメディアなどにも取り上げられ、世界中に広がりました。

11月17日に起きたビロード革命

1989年11月17日、チェコの首都プラハで学生らによるヤン・オプレタルを痛む追悼集会として許可された集まりが、打倒共産主義、民主化を求むといったデモに発展し、反体制の声が初代大統領であるトマーシュ・ガリク・マサリクに向けられました。
デモ隊はハベルを称えるながらヴィセフラット墓地へと向かい、数時間後には周囲を埋め尽くしました。
このデモの人数は数千人にまで膨らみ、プラハの中心部へと向かって歩き始め、途中警官隊の妨害を受けながら国民劇場へと向かいました。
デモ隊がナーロドニー通りに差し掛かったところで、武装した警官隊と向き合いますが、学生たちは非暴力を示すろうそくを立て、警官隊に花を渡す女性の姿も見られたといいます。
このプラハでの反体制デモは国中のデモの数々に拍車をかけ、プラハにあるメイン会場となったヴァーテラフ広場には、多くの政治家や知識人、スポーツ選手が反体制の演説をおこないにやってきました。

ビロード革命最大のデモ

ビロード革命最大のデモは11月25日、プラハのはヴァーテラフ広場でおこなわれ、レトナー公園には80万人の市民が集まりました。
反体制の大規模デモはチェコスロバキア全土でおこなわれ、これには国内機関の全部が集まりました。
市民フォーラムと共産政権のさらなる交渉の末、ついに共産党指導部は敗北を認め、政権を退き新政権が誕生しました。
その後まもなく当時の大統領マサリクも辞任し、1989年12月29日、チェコスロバキア最愛の英雄で民主主義の戦士であるハベルが満場一致でチェコスロバキアの大統領に選出されました。
ビロード革命は共産党による長い抑圧的な支配を終わらせ、チェコスロバキアを民主主義への道に導きました。メディア、言論、旅行への制限も解除され、他国へ移住した多くの人々も家に戻ることができました。
そしてその後すぐ、チェコスロバキアは今日も知られているような、平和的なチェコ共和国とスロバキアに分割されました(ビロード離婚)。

まとめ

政治体制を無血でやり遂げたという意味で、世界から大きな驚きと共に称賛されたチェコスロバキアは、今もその美しい街並みを残しています。
チェコスロバキアが平和的に解体されると、ハベルはチェコの初代大統領となり、1998年に再選され、2003年までの任期を全うしました。
ハベルが成し遂げた功績は大きいものの、このデモの原動力となったのは、市民一人ひとりの民主化への強い思いだったことは間違いありません。

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