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世界史

南北戦争ってどんな戦争?背景・経緯・その後をわかりやすく解説!!

2020年12月10日

アメリカの歴史において一番死傷者が多かった戦争をご存知でしょうか?
第一次・第二次世界大戦やアメリカ独立戦争などが主な戦争ですが、実は一番多かったのが南北戦争でした。
南北戦争では両軍あわせて60万人以上が戦死しましたが果たしてアメリカ史上最大の内戦はどのようなものだったのでしょうか。今回はそんな南北戦争の背景・経緯・その後についてわかりやすく解説します。

南北戦争とは?

エイブラハム・リンカーン

南北戦争とは1861年から1865年にかけて奴隷廃止を訴えた北部のアメリカ合衆国と奴隷制存続を主張し合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦です。

アメリカでは最大の戦争かつ唯一の内戦であるため、この戦争のことを内戦を意味するThe Civil War と表記しています。

南北戦争の背景

南北戦争時のアメリカ地図(黄色いところがいわゆるアメリカ連合国の範囲) ©世界の歴史まっぷ07-03 https://sekainorekisi.com/glossary/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%88%A6%E4%BA%89/

アメリカという国はアメリカ連邦政府という組織はあるものの、基本的には州ごとに独立しており、一致団結した国というわけではありませんでした。
そしてこの州が独立している状況がアメリカを二分する論争によって対立して南北戦争の火種となっていったのです。

まずは南北戦争が起きた背景について探りましょう。

連邦派と反連邦派の対立

1776年に独立宣言しイギリスから独立したアメリカでしたが、独立した直後に連邦派と反連邦派の対立が表面化していくことになります。
連邦派は強い力を持った連邦政府の下、アメリカを中央集権的な国家にしてヨーロッパ諸国に並ぶ国家を育成していこうと主張します。

一方で反連邦派は、もともとあった独立十三州の権利をそのまま認めて中央政府による制限をしないことを主張します。
この論争は長きにわたって続けられましたが、反連邦派のトーマス・ジェファソンが第3代アメリカ大統領に当選すると連邦政府の権限を縮小し、この流れがこの路線は今も引き継がれることになり引き継がれアメリカは各州の力が強い国家となりました。

そして時代が経ち1832年に7代大統領アンドリュー・ジャクソンを支持する人々が民主党を結成。連邦派の政策を引き継ぐことを主張し、それに反対する人々はのちに共和党を結成して対抗しました。

北部と南部の違い

アメリカが独立した当初はアメリカは工業や商工業を基幹産業としていた北部と農業を基幹産業としていた南部に分かれていました。
そのため北部の人たちはアメリカの工業と商工業を守るために安価なイギリス製品に関税をかける保護貿易を主張してこれを政策とした共和党を支持しました。
その一方で南部では綿花の輸出が重要な輸出産業となっていました。
南部の農場主らは「自分たちの州のことは自分たちで決める」と考え、州の自治拡大を主張する民主党を支持したのです。

奴隷をめぐる南北対立

南北戦争の最大の原因とされている黒人奴隷の使用についてですが、1787年に制定されたアメリカ合衆国憲法には黒人奴隷を禁止する条項がありませんでした。しかし、1808年に奴隷貿易の禁止が定められました。
北部からしたら黒人奴隷を解放して労働者として北部の工場に働かせる方が合理的だと判断たのです。

しかし、南部の農場主は黒人奴隷を使って大農場を運営してきたため黒人奴隷を自由にすることは簡単に言えば経営が成り立たなくなってしまいます。
そのため黒人奴隷制はその後も存在し、密貿易も後を絶ちませんでした。そこで南部の黒人奴隷についてミズーリ州を奴隷州とするかわりに、北緯36度30分以北には奴隷州をつくらないとするミズーリ協定が作られることになります。

しかし1854年に成立したカンザス=ネブラスカ法で奴隷を認めない自由州にするか、奴隷を認める奴隷州とするかは住民の意志で決まるとされ、ミズーリ協定は効力を失いました。

また、この頃に入ると黒人奴隷の実態を描いた小説が書かれ始めたことによって奴隷解放運動は高まりを見せました。

南北戦争の経緯

アメリカ連合国の旗

基幹産業の違いや国のあり方によって政治的にも経済的にも南北の対立は激しさを増していきました。
そんな中1860年の大統領選挙で黒人奴隷制拡大に反対したリンカーンが勝利して共和党初の大統領が誕生。黒人奴隷の解放は決定的なものとなります。

1861年2月これに反発した南部の7州が独立してアメリカ連合国の発足を宣言し1861年4月にアメリカ連合国軍がアメリカ合衆国のサムター要塞を攻撃。これに対抗してリンカーンが南部州の海上封鎖を行ったことによって南北戦争の火ぶたが切って落とされたのです。

南北戦争の戦局の推移

ロバート・E・リー

南北戦争開始当初、経済力や人口(北部約2200万、南部奴隷含めて約900万)の面で北軍が優勢でした。しかし、南軍にはリー将軍をはじめとして有能な南軍の指揮官が激しく反抗していたことで一時は南軍優勢で戦局が傾き始めていきます。

リー将軍は東部戦線の司令官でとしてリッチモンド防衛戦やブルランの戦い、チャンセラーズヴィルの戦いで南軍が勝利を勝利に導き、逆に、北部の主要都市であるボルティモアやフィラデルフィアに迫る勢いを見せます。

しかし全面的に見れば工業化が進み物量に勝る北軍が優位でした。特にグラント将軍率いる部隊が西部戦線で勝利を重ねたことで戦争は長期化します。

ホームステッド法と奴隷解放宣言

長期化した現状を打開するため、リンカーンは2つの手を打ちます。

一つは1862年のホームステッド法の制定です。
ホームステッド法はミシシッピ川以西に一家で移住して5年間定住・耕作した場合にはその土地の所有権を与えるとした法律です。
この法律を作ったことによって西部の農民は北部の連邦政府を支持するようなります。

もう一つは有名な奴隷解放宣言です。

1862年9月にリンカーンは1863年1月1日に奴隷を解放すると発表。この発表は国内外に南北戦争の北部の大義を奴隷解放であることを印象付けました。

これによってこれまで南部を支援してきたイギリスでは奴隷解放宣言後に人道的な問題によって公然と南部を支援しにくくなってしまったのです。

こうした手を打ったことによって戦局は一気に北軍に傾くことになるのです。

北軍の逆転とゲティスバーグの演説

ゲティスバーグの戦い

1863年、リー将軍率いる南軍はボルティモアやフィラデルフィアの攻略を目指して鉄道などといった交通の重要拠点であったゲティスバーグに進軍します。
北軍は南軍が有利に展開するためにゲティスバーグを占領しようとする動きを阻止するためにゲティスバーグ周辺に軍隊を展開、南北戦争最大の戦いが始まりました。
戦闘開始直後は南軍が優勢で、北軍はゲティスバーグの街から後退。しかし、物量で劣っている南軍は北軍を完全に圧倒することはできず戦線は膠着。
膠着状態のまま戦闘規模は拡大していき、双方合わせて50,000人以上もの死傷者を出す大激戦となり、最終的には攻略を諦めた南軍が撤退して北軍の勝利に終わりました。
その後リンカーンはいわゆるゲティスバーグの演説で「人民の、人民により、人民のための政治」を守るための戦いで戦死した兵士の霊を慰めました。

戦争の終結

ゲティスバーグの戦いによって完全に物量に勝る北軍が優勢となり北からはグラント将軍が、西からはシャーマン将軍が南部諸州に進撃し、連合国の重要拠点を次々占領し始めていくことになります。
北軍は南軍を圧倒したことで1865年4月3日に北軍は南部の首都リッチモンドを攻略。リー将軍が降伏したことでアメリカ連合国全体が降伏することになり、南北戦争は北軍の勝利に終わることになりました。

その後のアメリカ

南北戦争の終結後、アメリカでは西部開拓が本格化。
そもそも1849年からゴールドラッシュにより急速に発展しつつありましたが、戦争の終結やホームステッド法の制定、大陸横断鉄道の完成によって開発に一層の拍車がかかります。

そして肝心の奴隷解放でしたが、1865年のアメリカ合衆国憲法修正第13条で黒人奴隷制は廃止されました。その後1866年の憲法改正で黒人にも市民権が認められることになり、1870年の憲法改正で黒人の投票権も認められます。

しかし、1890年代以降には有色人種に対する隔離政策(ジム・クロウ法)が制定され始め黒人差別は根強く残りました。
黒人差別が問題化するのは1950年代の公民権運動を待たなければなりません。

まとめ

南北戦争はアメリカ人が経験した最も激しい戦争でしたが、この戦争は、南北の経済体制の違いが生じて勃発したものです。

実は黒人奴隷解放という目的は北部が利用した大義名分だったのですね。

戦いの犠牲は極めて大きかったものの、その後の歴史を考える上で重要な事につながったのかもしれません。

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