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世界史

天安門事件ってどんな事件?原因から影響についてわかりやすく解説!

「天安門事件」という事件を聞いたことはありませんか?1989年の中国・北京で、民主化を求める大勢の学生が共産党政権によって武力弾圧された事件のことを、「天安門事件」といいます。
現在の中国でもタブーとされている天安門事件について、詳しく解説していきたいと思います。

天安門事件とは?

天安門事件とは、1976年と1989年の2回、中華人民共和国で発生した一般市民への武力弾圧事件です。

実は天安門事件は二回あって1976年4月5日に起こった四五天安門事件と1989年6月4日に起こった六四天安門事件といった形で厳密には区分されていますが、通常「天安門事件」といったら六四天安門事件を指すことが多いです。

天安門事件の発端

1989年4月15日に胡耀邦元総書記が心筋梗塞で亡くなりました。この胡耀邦は中華人民共和国の政治家であり、初代中国共産党中央委員会総書記です。胡耀邦が亡くなり、学生らは北京にある天安門広場で追悼集会を開きました。これが、天安門事件の発端です。
しかし、この集会はただの追悼集会ではありません。胡耀邦を解任した最高指導者、鄧小平への抗議活動の意味も含まれていました。鄧小平政権を支えていた胡耀邦でしたが、1987年に突然「民主化を主張する知識人・学生に対し軟弱な態度を取った」として責任を取らされ、総書記を辞任したのです。
徐々に追悼集会は形を変えました。当時の中国独裁政権を否定し、民主化への移行を求めるものになりました。この動きを知った中国共産党は令(警戒を厳しくすること)を発令し、集会を鎮圧するために軍隊を動員しました。軍隊は戦車・銃を持ち、無差別に発砲し鎮圧しました。

天安門事件が起きた要因

天安門事件が起きた要因をお話しする前に、当時の中国政治体制を確認しましょう。

この時、中国は中国共産党による一党独裁政権でした。中国共産党は政治の民主化(国家の主権が国民にあること)を拒絶し、国民の民主化運動を徹底的に抑え込んでいました。このような一党独裁政権を当時の学生ら含め国民は快く思っていませんでした。このような背景があり、追悼集会が独裁政権を反対するデモと化してしまったのです。
この時、学生らの活動が「人民日報」という中国共産党の機関紙に載りました。そこには「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」という社説が掲載されていました。「動乱」とは、国家の秩序を乱すことをいいます。学生らの活動が「動乱」と記載され、さらには共産党の指導に反するため断固として反対しなければならないという内容が記載されていました。
学生らは猛反発します。その後、中国共産党の高官(高い官位の人)が話し合おうと言っても学生らはそれを拒否します。そして中国共産党は実力行使に出てしまい、天安門事件が起きてしまいました。

余談として、なぜ「動乱」社説が掲載されたのかを考えていきましょう。

当時デモに参加していた弁護士である浦志強は、「動乱と決め付けられたことで学生たちの間に衝撃が走った。」と証言しています。また、「胡耀邦の追悼が終わったら、学校に戻りデモが終わるはずでした。テストが近づき、学生たちは忙しくなっていました。しかしあのような社説が出て、怒りの炎が抑えられなくなってしまったのです。」とも証言しています。
なぜあのような学生たちを挑発する社説を掲載したのか。社説の掲載を進めたのは保守派の李鵬だと言われています。
李鵬自らが綴った政府の内部文書が、数年前に香港に流出しました。この文書には、改革開放を進めてきたはずの鄧 小平が社説の掲載に深く関わっていたことが記載されていました。李鵬は連日鄧小平に接触し、社説が出る前日にある指示を受けていました。
「力強い社説を出さねばならない。これは普通の学生運動ではなく、動乱である。旗幟を鮮明にしてこの動乱に反対し、制止しなければならない。」
鄧小平は共産党の一党支配にこだわっていました。民主化を求める学生デモに対して厳しい姿勢を示していたのです。

天安門事件の死者数

天安門事件の死者数は数百人〜1000人以上と様々な説があります。中国当局は、1989年6月末に「北京では市民200人と治安部隊数十人が死亡した。」と発表しました。
しかし、当時のアラン・ドナルド駐中国英国大使が1989年6月5日に英国政府に報告した極秘公電(外務当局と在外公館、または在外公館同士の間で電信によってやり取りされる公式の文書のこと。)が、2017年10月に機密指定が解除されました。そこには、天安門事件で中国軍が殺害した人数は「少なくとも1万人以上」であったことが明らかにされました。

天安門事件は語り継がれない?

インターネット・SNSが普及している現在社会で、中国政府の情報統制はこの数年でさらに厳しくなっています。中華人民共和国では、法律に従って60以上の条例が中国政府によって作られ、地方政府・インターネットサービスプロバイダ・インターネット企業などが検閲を実施しています。実際に、中国では米動画サイトのユーチューブ、フェイスブック、ツイッターの利用は出来ません。
2019年6月4日で天安門事件から30年が経ちました。インターネット百科事典ウィキペディアを運営する米国の非営利組織、ウィキメディア財団は18日までに中国で全面的にウィキペディアの利用ができなくなったことを発表しました。中国当局がネット統制を強化した可能性があるのです。当時、ウィキメディア財団は遮断の理由が分からず、公開情報の自由な入手は「基本的人権だ」と主張し、遮断の解除を要求した事案があります。
このように中国では情報の検閲を行なっているため、現在の大学生は虐殺について聞いたことすらない状態です。しかし中国のネットユーザーたちは、中国の影響が及んでない台湾などで行ったりするなどありとあらゆる巧妙なやり口で追悼式を行なっています。
例えば起こった6月4日を何とか表すために当事件を意味する5月35日(5月31日+4日)、VI IV(ローマ数字の64)や8の二乗(64)などの隠語で何とか天安門事件を表そうとしているのです。

まとめ

天安門事件後の中国は、国際的な孤立に陥ります。日本を含めた西側諸国から激しく批判されたのです。各国は経済交流などを停止し、中国に経済制裁を課しました。その後日本が手を差し伸べ、結果的に中国は国際社会への復帰を果たします。
中国では、天安門事件という歴史は今もタブーです。検索、SNSで「天安門事件」と検索すると、武力鎮圧があったことは消し去られています。歴史は繰り返されるとよく言いますが、数十年後中国国民で天安門事件を知る人物はいなくなるでしょう。香港の問題など再び中国がきな臭い状態になっていますがはたして学生の悲願であった中国の民主化は不可能なのでしょうか?それはまだわからないのです。

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