スポンサーリンク

政治用語 日本史

社会党ってどんな政党?その主義主張と歴史をわかりやすく解説!

2020年6月28日

皆さんは「日本社会党(社会党)」という政党が昔あったことをご存知でしょうか?1996年に社会民主党(社民党)に改名したので、今となっては日本史の授業で習うくらいかもしれません。

しかし、戦後の日本では「55年体制」と呼ばれる、自由民主党(自民党)が与党第1党の地位を占めて政権を維持し、野党第1党は日本社会党が占めるという政治体制が長らく続いていました。そのため、社会党について知ることは現代日本の政治を知る上で重要です。

そこで今回は、この社会党につきまして分かりやすく解説させていただきます。

55年体制の成立まで

社会党は1945年、第二次世界大戦前の非共産党系の合法社会主義勢力が集まって結成されました。その中には、反共的な右派的な勢力とむしろ共産主義に近い左派的な勢力があり、目指す社会主義の像にズレがありました。このことは、のちに党内でたびたび派閥対立が起こる原因になりました。

日本国憲法が成立して最初の総選挙である1947年第23回総選挙で社会党は第1党となり、片山内閣が成立しました。しかし、右派の一部が社会革新党を結成して脱党したり、左派が公然と内閣の方針を批判したりと党内対立が続いたため、1948年に片山内閣は瓦解しました。続く芦田内閣では、西尾献金問題や昭和電工事件という政治スキャンダルが起きたため、吉田茂の率いる民主自由党に選挙に敗れ、社会党は下野に追い込まれました。

1951年にはサンフランシスコ講和条約への賛否が分かれたことが原因で、アメリカやイギリスなど資本主義陣営との講和を前提に独立回復を急ぐべきであると主張する右派社会党と、ロシアや中国を含めて国際社会と全面的に講和すべきであると主張する左派社会党に分裂しました。また、左派社会党は非武装中立論を唱えて党勢を拡大した一方で、右派社会党は党内での再軍備に関する対立もあり再軍備に対して明確な姿勢を打ち出すことが出来ず、党勢は伸び悩みました。この分裂は1955年10月に解消されました(社会党再統一)。

55年体制のもとでの社会党

憲法改正を目指す保守勢力は自由党と日本民主党に分裂していましたが、社会党再統一を受けて、1955年11月に保守合同を実現し、自由民主党(自民党)を結成しました。これによって、保守勢力である自由民主党が議席の3分の2弱を確保し、日本社会党を中心とする革新勢力が議席の3分の1強を維持する「55年体制」が確立されました。これにより日本でも二大政党制が確立されましたが、国会の議席数の比でいえば2:1であったので、「一と二分の一政党制」とも呼ばれました。この間、自民党から社会党への政権交代はなかったものの、革新勢力が議席数の3分の1を占めており自民党は憲法改正のために必要な3分の2以上の議席を確保できなかったことから、憲法改正はありませんでした。

社会党の衰退

1960年代に入ると、自民党内にも改憲にこだわらない議員が増え、安全保障をアメリカに依存し、国防費を経済政策に当てる軽武装路線を基盤とした政策が採用されました。この軽武装路線のもとで、自民党は従来社会党が主張していた福祉政策を取り入れました。また、1960年代に入ると国民の間でも安保体制に対する忌避感が薄れていました。

経済政策で独自性を失ったほか、護憲と反安保にこだわり続けたため、社会党は支持基盤を失いました。さらに、支持基盤を労働組合に絞るようになり、1960年代末以降、総選挙のたびに公認候補者を減らす消極策を取るようになりました。

こうして社会党は選挙のたびごとに勢力を衰退させるようになりました。特に、1969年の総選挙では、暴力的な学生運動や中華人民共和国での文化大革命、「プラハの春」に対するソ連の軍事介入などに対して社会党が批判的な態度を取らず曖昧な態度に終始していたこともあって(後述の共産党はこれらを批判しています)、議席数を140から90へと大きく減らしました。

こうした傾向は都市部で特に顕著でした。さらにあさま山荘事件などの日本赤軍・連合赤軍の一連の事件によって左翼勢力も大きな非難を浴びるようになりました。

また、1960年には社会党の右派勢力が独立して西欧や北欧流の社会民主主義政党の理念を掲げる民社党となったほか、1964年には公明党が結成され、1970年代には共産党も勢力を拡大し30議席程度を獲得するようになりました。自民党も徐々に議席数は減らしていましたが、こうして、一党で自由民主党に対抗出来る政党は皆無となりました。

国政レベルでの衰退の一方で、地方レベルでは社会党の存在感は1960年代末から1970年代にかけて増大しました。自治体首長選挙では共産党と共闘し(社共共闘)、東京都知事でマルクス経済学者の美濃部亮吉、大阪府知事の黒田了一、京都府知事の蜷川虎三、横浜市長の飛鳥田一雄など各地で革新首長と呼ばれる首長を誕生させました。

革新首長は公害問題や社会福祉の充実などにおいて一定の成果を残した一方で財政悪化を招きました。

こちらもCHECK

革新自治体って何なの?生まれた経緯から現在の状況についてわかりやすく解説!

「革新自治体」をご存じですか?名前を聞いてもピンと来ない方が多いのではないでしょうか?革新というと過激なイメージを持ってしまうかもしれませんね。革新自治体とは何なのか、なぜ生まれたのか、現在はどうなっ ...

続きを見る

「55年体制」の崩壊と自社さ政権

1986年の衆参ダブル選挙で社会党は大敗し、土井たか子が議会政党としては日本初の女性党首となりました。土井の人気に加えて、消費税導入やリクルート事件などの汚職による自民党への不満と政治不信を背景として社会党の党勢は一時的に盛り返しました。

しかし、土井が党首を退任後の1993年の第40回総選挙では、社会党は新党ブームに埋没し、議席をほぼ半減させました。この選挙では自民党も大敗し単独過半数を逃したため、自民党と共産党を除く8政党が連立政権を組みました。これによって55年体制が終焉を迎えます。

社会党は連立政権内では議席数は最大だったものの、この選挙で議席数を大きく減らしていたことから首相を出せず、日本新党の党首で前熊本県知事の細川護熙が首相となりました(細川内閣)その後、細川内閣が佐川急便をめぐる政治資金疑惑で退陣すると、新生党党首の羽田孜が首相となりました(羽田内閣)新生党との対立から、羽田内閣では社会党は連立を離脱しました。

羽田内閣退陣後の1994年の選挙で政権復帰を狙っていた自民党は、羽田内閣で同じく新生党と距離を置いていた社会党および新党さきがけと連立政権を組み(自社さ政権)、社会党党首の村山富市を首相にしました。村山首相は、就任直後の国会演説で、安保条約や原発を肯定したほか、自衛隊を合憲とするなど、旧来の社会党の方針を変更しました。阪神淡路大震災をめぐる初動対応の遅さもあり、社会党の求心力は大きく低下しました。

そうしたこともあり1996年に社会党は社会民主党(社民党)に党名を改称しました。こうして41年の日本社会党の歴史に幕を下ろしたのです。

21世紀における社会党の系譜

社会党・社民党の本拠地だった社会文化会館(2013年に解体)

社民党は土井たか子を党首にするなど党勢の回復を狙いましたが失敗し、2020年6月1日時点で衆議院および参議院での議席数はともに2議席にとどまっており、立憲民主党との合流も模索されています。

しかし、土井ブームに沸いた1990年の選挙での初当選議員の多くが民主党に参加し、政権中枢の要職に就くこととなりました。また現在でも立憲民主党内にかつての社会党の流れを汲む議員がいるほか、リベラルな政策を掲げており、労働組合を重要な支持基盤の一つとしていることから、立憲民主党も社民党と同様に社会党の系譜を継ぐ政党と考えることもできそうです。

果たして社会党が目指した理想は後継政党が引き継いでいくのか?その答えはそう遠くないのかもしれません。

 

スポンサーリンク

こちらもおすすめ!

1

ニュースや新聞で世界情勢の話題になったとき、「国際連合」というワードを聞いたことはありませんか?最近でいうと昨年、環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんが各国首脳の前でスピーチして話題になりました。中学 ...

2

1914年から1918年にかけてヨーロッパでは第一次世界大戦が繰り広げられていました。 そしてこの戦争はヨーロッパの体制を根本から崩すこととなり、現在にもつながる影響も残すことになったのです。  今回 ...

3

世界の政治体制は、それぞれの国によって違っています。同じ民主主義国家でも、国によって大統領制をとっている国、議員内閣制の国と、政治体制の採用が違っているのです。 日本は、御存じの通り、議院内閣制を採用 ...

-政治用語, 日本史

© 2021 レキシデセカイ Powered by AFFINGER5