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日本史

シベリア出兵ってどんな戦争?起こった原因や日本の思惑についてわかりやすく解説!

第一次世界大戦の途中で起こったロシア革命。その変化に対して日本をはじめとした国々ははシベリアにたびたび軍を派遣しました。しかし、このシベリア出兵で軍隊が何をしたのかはあまり知られていません。

今回はそんなシベリア出兵の目的などを解説していきたいと思います!

シベリア出兵とは?

ウラジオストクでパレードを行う各国の干渉軍

シベリア出兵とは1918年~1922年にかけてシベリアに抑留されたチェコ兵捕虜の救出を名目としてアメリカ・イギリス・フランス・日本などの国々がロシア革命への干渉を目的に出兵した出来事です。

反革命軍が崩壊すると米英仏軍は撤退しましたが、シベリアの支配をもくろんだ日本は日本は駐留を続けましたが1922年シベリアから撤退。シベリア出兵ではあまり成果は得られませんでした。

第一次世界大戦と十月革命

1914年6月サラエボ事件を契機にイギリス、フランス、帝政ロシアを中心とする連合国と、ドイツ、オーストリア=ハンガリーを中心とする同盟国に分かれ、ヨーロッパを2分する戦争に拡大、さらにアメリカ、日本、中国などをも巻き込み世界大戦に発展します。

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世界大戦は国家総力戦となり、各国に過大な負担をかけ、特に工業化の遅れたロシアには耐えられないものでした。1917年サンクトペテルブルクでのデモから2月革命が勃発、帝政ロシアが打倒され、ロシア臨時政府、ボリシェヴィキの二つの政府が樹立されます。同年、10月革命によりボリシェヴィキはロシア臨時政府を倒し権力を掌握しましたが、1922年まで赤軍(共産主義)、白軍(共和主義)に分かれ、内戦状態になりました。

出兵前夜

1918年3月ボリシェヴィキ政府は、同盟国側とブレスト=リトフスク条約を締結、単独で世界大戦から離脱しました。ロシアが離脱した事により、ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中させる事ができ、イギリス、フランスは苦戦を強いられます。連合国側は再びドイツに東部戦線を形成させ、西部戦線の弱体化を図り、ロシア内の反革命勢力を支援し共産主義政権を打倒するため、ウィルソン米大統領提唱した「チェコスロバキア軍団救出」を大義名分にウラジオストックへの出兵が計画されました。
西部戦線でドイツ軍に対するイギリス、フランスに極東のウラジオストックに大部隊を派遣する余力はなく、大規模な陸上戦力を投入していない、アメリカ、日本に主力になるようイギリスから要請がありました。
日本国内は出兵では一致していましたが、他国の思惑に関係なく日本が主体となり、大規模な出兵を行うべきとの積極的出兵論とアメリカとの共同歩調による出兵のやや消極的出兵論が対立します。その後、出兵はウラジオストック周辺に限定する、日本単独で進軍しない、兵力は各8,000名程度とする等の対米協定を基に妥協案が成立、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、カナダ、中国とともに出兵する事となりました。
1918年8月2日寺内正毅首相は出兵を宣言、同12日ウラジオストックに上陸。アメリカは協定通り8,000名規模の派兵でしたが、日本は協定を大幅に超える、37,000名を派兵、その後参謀本部の独断で増派を続け、最大73,000名まで増派しています。
当時の首相は陸軍大将から陸軍大臣を経て就任した寺内正毅でしたが、米騒動で9月に総辞職、原敬が首相となり日本初の本格的政党内閣を発足させました。しかし、陸軍の暴走を止める事ができず増派を黙認、1922年10月(北サハリンは1925年5月)まで出兵は継続されました。

出兵から日本軍進路

1918年8月2日出兵宣言が出されると、8月4日には浦塩派遣軍総司令部が編成されました。小倉駐屯の第十二師団に動員令が発令され、8月12日に第十二師団第一梯団がウラジオストックに上陸、同年9月5日には沿海州ハバロフスクを占領しました。その後シベリア鉄道沿いに西進、10月上旬にアムール州を制圧しました。8月9日には満州駐屯中の旭川第七師団に動員令が発令され、9月6日ザバイカル州のチタを占領、9月22日にシベリア鉄道沿いに西進した第十二師団とシベリア鉄道で東進した第七師団が直結した事で、チタ以東のシベリア鉄道沿線地域は日本軍、連合国軍が制圧した事になりました。8月24日には名古屋駐屯第三師団にも動員令が発令され、平壌からハルピンを経てシベリアに進軍。浦塩派遣軍総司令部は、第三師団をチタに、第七師団を中露国境にある満州里に、第十二師団をハバロフスクに駐屯させました。その後第三師団は第七師団と交代、第三師団は第五師団と第十二師団は第十四師団と交代させています。
第三師団は進軍を続け1920年1月1日バイカル湖西端にあるイルクーツク州イルクーツクに進駐、同年1月19日に撤退しましたが、これは原内閣の方針「バイカル湖以西には進駐しない」に反する行為でした。また、対米協定にある、「派兵地域をウラジオストック周辺に限定する」との協定にも違反していました。

パルチザン戦争と苦境に陥る日本

日本軍は1919年1月頃より、パルチザンの遊撃戦に苦戦するようになります。労働者や農民の集団で構成された非正規軍との戦闘は日本軍が初めて遭遇する戦闘で、次第に交通の要衝を確保するのが精一杯の状況となりました。パルチザンとの戦闘では、誰が兵士で誰が一般人か区別する事は甚だ困難で、村落全体に対する懲罰的な攻撃にならざるを得ませんでした。

マサノヴァ村事件

同年1月現地守備隊の掃討作戦に耐えられなくなったパルチザンが一斉蜂起、近隣の村落を巻き込んだ大規模戦闘に発展します。零下42度にもなる気象条件にも苦しみ、日本軍は一旦撤退、マサノヴァ村はパルチザン側に解放されましたが、日本軍が巻き返し再占領、その際道すがらの村落に放火、農民を虐殺、また近隣のソハチノ村でも逃げ遅れた村民全員を銃殺、村落を徹底的に焼き払いました。同年2月にイノケンチェフスカヤ村でも、逃げ遅れた村民、100名以上を刺殺、銃殺、略奪や放火が行われています。

ユフタの闘い

同年2月25日パルチザン掃討作戦中だった第十二師団第72連隊第三大隊約150名は、パルチザンの攻撃により逆に包囲され全滅。3日後の28日救援部隊107名も地形を熟知したパルチザン側の攻撃で全滅しています。

尼港事件

焼け落ちたニコライエフスクの日本領事館

1920年1月冬季で港が氷結し孤立していた、アムール川河口付近にあるニコラエフスクをパルチザン4,300名が包囲、日本守備隊と交戦となり、日本守備隊は殲滅され3月に降伏、生き残った日本人は投獄されました。原内閣は北サハリン居留民保護のため救援軍派遣を決定、6月3日に救援軍はニコラエフスクに到着、パルチザンは撤退しましたが、撤退時に街を破壊し投獄されていた全員を虐殺、日本人犠牲者は解っているだけで700名を超えています。反革命と判断されたロシア人住民数千名も虐殺されました。
6月28日サハリン州の占領を閣議決定し、7月15日北サハリンを占領しました。

シベリア出兵の失敗と撤兵

1918年11月ドイツと連合国間で休戦協定が締結され、世界大戦は事実上終結しました。連合国側のシベリア出兵の意義も失われ、1919年9月28日にチェコスロバキア軍団の撤兵が決定した事で名目上の意義も失われてしまいました。対共産主義でも1920年1月にロシア白軍司令官コルチャーク将軍が部隊を解散した事で、ロシア革命干渉戦争も失敗に終わりました
1920年9月のチェコスロバキア軍のシベリア撤兵をもって、シベリアに駐屯するのは日本軍だけとなりました。1921年5月原内閣はシベリアからの撤兵を閣議決定しましたが、同年11月4日原敬首相は暗殺されました。1921年11月12日からワシントン海軍軍縮会議が開催され、この会議の中で全権代表加藤友三郎海軍大臣は条件が整い次第、撤兵する事を約束しています。
その後首相に就任した加藤友三郎は1922年6月23日、同年10月末までのシベリア撤兵を閣議決定。10月25日全ての部隊が北サハリンを除き、シベリアから撤兵を完了しました。(北サハリンは、日ソの国交が樹立された1925年まで駐留が継続します)

シベリア出兵は当時の金額で十億円、戦死者3,500名、厳しい気候条件もあり死傷者一万人を出してしまい、大失敗に終わったのです。

まとめ

出兵当時日本は領土獲得の野心、日露戦争後に失った利権の回復、日本や日本統治下の朝鮮、満州に隣接する地政学上の問題、天皇制と共産主義と言う政体やイデオロギー上の問題など思惑が錯綜、また、参謀本部も国防上北辺の脅威を払拭するべく、東部シベリアに親日的な傀儡政府を樹立する事を目論んでいました。

軍部の独断専行はアメリカの対日不信感を招き、アメリカはシベリアにおける日本の勢力拡大を警戒させ反日感情を呼ぶ結果となりました。一般兵士には目的が明確にされず、直前に起こったコメ騒動の影響やパルチザンとの凄惨な戦闘などで、士気は上がりませんでした。戦費当時の金額で十億円、戦死者3,500名、厳しい気候条件もあり死傷者一万人超を費やしたが、出兵は失敗に終わることになります。

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