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日本史

薩英戦争とはどんな戦争?背景や経過、その後など簡単に分かりやすく解説!!

薩英戦争は1863年に薩摩藩とイギリスの間で起きた戦争です。
現在の神奈川県である当時武蔵国橘樹郡の生麦村でイギリス人と島津の間で起きた事件である「生麦事件」が元で「補償と解決を求めるイギリス」と「自国のしきたりに従うよう促し責がない事を主張する薩摩藩」とで戦争が起きてしまいました。
この戦争は3日間ほど行われ、薩摩藩は、鹿児島城下の1割の消失と武器庫などに損害を受け、イギリスも優秀な軍の艦長や副長を失うなどしてお互いに甚大な被害を出し痛み分けとなったこの戦争は後にイギリスと薩摩藩の交友を深めるものになりました。

今回は、この「薩英戦争」について分かりやすく解説し、事件の発端や戦争後の流れなどについて紹介していきます。

薩英戦争とは

イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘

薩英戦争とは、文久3年旧暦7月2日~4日(1863年8月15日~17日)で起きたイギリスと薩摩藩との間起きた紛争です。
島津が江戸に赴くために軍勢を連れて移動していたところ、行列を乱したとしてイギリス人が処罰されました。これにより「生麦事件」が起きてしまい、これが「薩英戦争」に繋がります。

薩摩藩側は、鹿児島城下の1割焼失・一般人9人死傷の被害を受けてしまい、イギリス側は戦死13名・負傷者50名・艦船大破1隻、中破2隻とお互いに大きな損失を被り、痛み分けの結果で勝敗は引き分けとなりました。
しかし、薩摩藩もイギリスも自身の責を認めず、最終的には長い交渉の末、幕府がイギリス側へ補償金を払う形で収まりを見せることになります。

その後、イギリスも薩摩藩もお互いの事を良く知ろうと思うようになり、交流を深めていきました。

薩英戦争が起きた背景

文久2年8月21日に薩摩藩主の島津茂久の父で藩政の最高責任者である島津久光が幕政改革を掲げて700人もの軍勢を連れ江戸へ向かう途中に起きた事件です。
その行列が、武蔵国橘樹郡の生麦村(現在の神川県)付近に近づいたときでした。
4人組のイギリス人が乗馬を楽しんでおり、島津久光の隊列がそこに通り掛かります。
そのイギリス人が列を乱してしまい、処罰される運びとなりました。
しかし、イギリス人には言葉・作法が通じないことは明白で、この事情を知った幕府は詳しい詳細を薩摩藩へ問うことになります。
薩摩藩はいろいろな言い逃れを行い、事実を捻じ曲げ報告したことで幕府の怒りを買ってしまうことになりました。
さらに出頭を命じられるもしらを切り通し、その不遜な対応からイギリスからの怒りも買い「薩英戦争」へと拡大していくことになります。

生麦事件から薩英戦争へ

事件から二日後にイギリス側のニール代理公使と外国奉行の津田正路と会談し、薩摩藩側の落ち度として「なぜ島津が通行することを知らせなかったのか」と問い正しますが、津田は「一大名は幕府の下に位置するためそれほど重要ではなかったこと」を伝えるのでした。
ニールは薩摩藩の方が過激であることを理解していたため、これを反論し幕府側の過失として訴えました。
そのため、イギリス側は実行の引き渡しを繰り返し要求しましたが聞き入れられることはありませんでした。
しばらく硬直状態が続きましたが、イギリス本部からニールへ「幕府への賠償金の支払いと謝辞」を促すように指示が下ります。

最初は支払いを了承していた幕府ですが、その時は徳川家茂が不在のもと決められたことであり、徳川家茂が戻り、事情を報告するとこれを拒否することになりました。

ニールと酌み交わした納期1日前にて期限の延期が行われたため、ニールは怒りイギリス軍艦へ戦闘の準備を始めるように指示し穏便に済ますことはできなくなり「薩英戦争」が開戦するのでした。

薩英戦争の経過

薩英戦争開戦は、7月2日の夜明けでした。
イギリス艦隊5隻が当時の重富の脇元浦(現在の鹿児島県姶良市)にて薩摩藩の蒸気船に接近し、薩摩藩の船へ60人の兵を投入します。
薩摩蒸気船団に乗り込んできたイギリス兵に対して、乗員は抵抗するも銃剣で攻撃され陸へ誘導されてしまいます。
薩摩藩は、3隻もの蒸気船を奪取されてしまい、船長の松木弘庵と五代才助が拘束され捕虜にされます。

その後、確保された3隻の蒸気船はイギリス艦隊に桜島付近まで牽引され、これを薩摩藩はこれを盗賊行為とみなし薩摩が持つ砲台7か所に迎撃の命令を下します。
正午に薩摩藩からの砲撃命令が受理され、敵艦のユーライアスに向けて発砲が開始されました。
それを合図にイギリス軍が潜伏する桜島側の砲台も発砲を開始します。

砲台の存在を知らず桜島に潜伏していた船パーシュースの艦長は慌てふためきその場を逃走しました。
他の場所でも不意を突かれたイギリス軍の艦隊は、自身の艦隊の隊列が乱れていることから確保した蒸気船3隻を焼却することを決めます。
蒸気船から貴重品を強奪し、その後艦隊で砲撃を行い蒸気船を焼却処理することでイギリス艦隊は隊列を整え迎え撃つ準備をするのでした。

陣形を組み薩摩藩側の第8・第7・第5の砲台へ向けてアームストロング砲で砲撃を開始します。
激しい打ち合いにはなりましたが、イギリス軍の砲撃は正確であり、薩摩川の大砲8門を見事破壊することに成功しました。
イギリス軍有利になるかと思いきや天候が乱れ、船の機関故障により薩摩藩有利に戦況が変化します。
さらに薩摩藩からの砲台での攻撃がイギリス艦隊の「ユーライアス」に命中し、艦長・司令・副長など士官が戦死しました。

これにより戦争は激化し、イギリス軍の勢いは衰えるどころか強くなります。
その戦火は、鹿児島城の城下町まで及び、350余りの民家と160の侍屋敷、4寺社が焼失するという薩摩藩の大きな損害となりこの日の戦闘は終了しました。イギリス軍は前日の戦闘で戦死した艦長や副長など士官の11名を海に返し水葬をし、その後艦隊の隊列を整えて砲撃が開始されます。
2日目の戦闘はこの砲撃を合図として行われることになりました。

砲撃は、両岸と市街地に行われ、寺院や市街地を焼いてしまいます。
その砲撃の被害の中で甚大だったのが、第11台場と突出台場の薩摩藩の火薬庫が誘爆し、焼失してしまいました。

これにより、イギリス艦隊への反撃もできなくなりその間にイギリス艦隊は自身が受けた損傷を修理し戦闘を開始します。しかし、薩摩藩の残りの砲台の反撃は激しく船の損失もおおきくなり、お互いに大きな傷を負うことになりました。2日の間、お互いに激しい戦をしていた両者ですが、戦いは薩摩藩州の近くで行われます。イギリス艦隊は、艦長や副長ら士官の損失と弾薬・石炭燃料の消耗により撤退を余儀なくされてしまうのでした。薩摩側も損失が大きく砲台も破壊されているため、追撃できずに見送ります。

その後、7月11日にイギリス艦隊は横浜に帰着したと報告が入りました。これにより、薩英戦争は終結するのでした。

薩英戦争のその後

戦闘の結果は、物資不足や兵士の損失が大きくイギリス艦隊が撤退したとはいえ、薩摩側も戦死者こそ5名に留まるも台場の大砲8門・鹿児島城下1割損傷(民家350、5寺院や藩士屋敷160余り)蒸気船3隻と軍事的損害は甚大で薩摩藩としても手放しで喜べるものではなかったのです。
しかし、朝廷はイギリス艦隊を撤退に追い込んだ薩摩藩を褒めたたえ、イギリス軍は戦闘の意思があったにもかかわらず撤退することになり、不平不満が溜まったと言います。
史実上では、引き分けとなっていますが、精神的な物では「薩摩藩の勝利」のようなものになっています。
さらに世界では、「イギリス艦隊は当時最強」とされ、横浜へ撤退を余儀なくされたことから世界に驚きが広がりました。
これをニューヨーク・タイムズ紙は、「この戦から西洋人が学ぶべきは、日本侮ることなかれということ。」「彼らは、西欧武器を使った戦術にも対応し、予想外に戦術に長けている」「イギリスは、増援を送るも日本をくじくことが出来なかった」と報じ、結果として日本は賠償金を払っていますが、その時の世間は日本がイギリスにも劣らない強国だったと知ることになりました。

まとめ

薩英戦争とは、「生麦事件」が発端となり、薩摩藩とイギリスの間起きた戦争で、2日間の砲撃船を繰り返しお互いに甚大な損失を出した大きな戦いです。
戦闘の結果は、引き分けではあるもののその当時の世界最強と言われたイギリス軍を退けた日本を世界は高く評価し、イギリスに負けないほどの力を持っていることを世に知らしめることができたのでした。

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