スポンサーリンク

ニュース 日本史 歴史用語

サンフランシスコ講和条約とはどんな条約?その経緯や内容についてわかりやすく解説!

今年は戦後75年になりますが、この間日本は奇跡的に戦争に巻き込まれることもなく、ごく当たり前のように平和を享受しています。
しかし、サンフランシスコ講和条約が可決され発効するまでの1952年4月28日までは、日本の主権が認められていませんでした。この講和条約の発効により日本は「戦争状態」から抜け出ることができて、主権国家への道を歩むことができるようになったのです。

サンフランシスコ講和条約とは

サンフランシスコ講和条約に署名する吉田茂

サンフランシスコ講和条約とは第二次世界大戦後の1951年に日本とアメリカとの間で結ばれ講和条約のことです。サンフランシスコ平和条約とも呼ばれます。
当時の日本の首相であった吉田茂が西側諸国の49カ国との間に平和条約を調印したことによって、連合国軍によって占領されていた日本は独立国となりました。

講和条約が結ばれるまでの経過

講和条約の会議を主体的に先導したのが米国を軸とした連合国でした。当時は資本主義・自由主義体制を基調とする西側諸国と共産主義を基調とするソ連が激しく対立していました。そのため、会議に臨むに当たって日本では当時2つの主張がありました。
一つは「単独講和論」です。米国と単独で講和を結ぶべきであるという主張です。日本の立ち位置は自由主義国家陣営におき、戦後からずっと日本に駐留して日本を支配していた米軍の駐留を継続して認める、そのために日本と米国間で「二国間軍事同盟」を締結するというものでした。
これに対して「全面講和論」を主張するグループもありました。米国とソ連の激しい対立を緩和することを目指して日本は完全に中立的な立場で全面的な講和を図るべきだとする主張でした。日本共産党、労働者農民党、社会党などの政党や学者・知識人などが主体となっていました。その背景にはソ連などを講和条約に巻き込まないと第3次世界大戦が勃発する可能性があることを危惧したことがあったと言われています。

単独講和にシフトするための事前準備

この当時の日本の首相は吉田茂でした。吉田首相は「日本が永世中立とか全面講和を主張しても実現するものではない」という考えを持っていました。当時の国民はどう考えていたのか朝日新聞が調査しています。
その結果は、単独講和支持が 45.6%、全面講和支持が 21.4%、わからないが 33.0%となっています。国民の半数近くが自由主義陣営に属することに賛意を示していたことが窺えます。
単独講和への事前準備は周到に実行されました。

・吉田首相とダレス国務長官顧問との会談の開催(1951年1月29日)
・外務省の一部に講和条約のたたき台を秘密裏に作成させる
・当時の蔵相池田勇人を訪米させ講和条約案を国務省と国防省の高官に示して講和促進の根回しを実施。この時に講和後の在日米軍の継続駐留のオファーを示唆した。

などが明らかになっています。

講和会議開催までのプロセス

会議を開催するには招請状を送る必要がありますが、この作業は米英が協議しながら進められました。概略は次の通りです。
・1951年7月20日:米英共同で招請状を発送。対象は50カ国で当然日本も含まれました。
・1951年8月22日:ベトナム・ラオス・カンボジアにも招請状送付
・連合構成国の中華民国と中国共産党政権は招請せず
・招請に応じなかった国はインド・ビルマ(現ミャンマー)・ユーゴスラヴィア
・韓国が参加要請をしたが、第2次世界大戦当時は日本の統治下にあり、日本と韓国の間に戦争がなかったなどを理由に参加を拒否(米英協議等による判断)

講和会議の状況

講和会議はサンフランシスコ市中心街のオペラハウスで1951年9月4日から8日まで行われました。参加国は52カ国でした。
日本は吉田首相をトップとする全権団を構成し会議に臨んでいます。吉田首相はできるだけ超党派で構成したいという考えから全権委員は、蔵相の池田勇人、国民民主党最高委員長である苫米地義三、自由党常任総務の星島二郎、参議院緑風会議員総会議長の徳川宗敬、日銀総裁の一万田尚登の6人で構成されました。
この他に、全権委員参加を要請された日本社会党は、党内で全面講和を主張している党員がいることから、元首相の片山哲と広島市長の浜井信三が随員として参加しています。

討議された内容と結果

条約案は7章26条から構成され、この案に沿って討議が行われました。
簡略にまとめると次のような事項です。

ポイント

・日本と連合国との戦争状態の終了
・日本国民の主権の回復
・日本が有した領土の放棄あるいは信託統治への移管
・戦前の国際協定に基づく権利等の放棄
・国際協定の受諾
・賠償
・安全保障

等です。最終的に9月7日に吉田首相による条約受諾演説が行われ、翌日の9月8日は49カ国が署名し講和会議は閉幕しております。その後各国が順次批准して日本の主権回復を認める講和条約は1952年4月28日に発効しています。

条約に調印しなかった国、会議に参加しなかった国

こうして日本は講話を成し遂げることになりましが、このサンフランシスコ講和条約には東側諸国や第三世界の国々は参加しませんでした。

会議に招待されたのに参加しなかったインド・ビルマ・ユーゴスラビアの3ヵ国や会議には参加したけど調印しなかったソ連・ポーランド・チェコスロバキアの3ヵ国は日本にアメリカ軍が駐留し続けることに反対したのです。

さらに中華人民共和国や韓国が会議に参加していないというのは後の外交問題にもつながる非常にややこしい事態を招くことになりました。

講和会議後に生じた問題

講和会議で取り上げられた「安全保障」は今日でももめ続けています。

条約案の第5条(C)に、「 連合国は、日本が主権国として国連憲章第51条に掲げる個別的自衛権または集団的自衛権を有すること、日本が集団的安全保障取り決めを自発的に締結できることを承認」という条文が入っています。
国連憲章が定める当然の権利を基に条約案に入れられたものですが、平和憲法の模範と言われている日本国憲法第9条の規定の解釈において「個別的自衛権は認められるとしても集団的自衛権は認められない」というのが内閣法制局の従来の見解でした。条約の発効により集団的自衛権が国の権利として認められてもこの見解は変わりませんでした。
日米安保条約締結時に大規模な反対運動が起きましたが、日本の安保政策について国民間の論議が不十分だったことも背景にあるのではないかと思われます。
吉田首相は経済優先と国民の平和精神を考慮してか、米国との安全保障条約の締結により米軍の継続駐留を認める道を選択しました。日本の防衛の多くを米国に依存する軍事的従属の状態が今日も続いています。

講和会議で棚上げされた領土問題

講和会議では戦後日本の領土が確定されることになっていました。しかし、千島の定義とソ連の不参加で「北方領土問題」が棚上げされ、現在も未解決です。

こちらもCHECK

日本とロシアの長年の対立!北方領土問題について詳細を解説!

日本は周辺諸国との間で領土問題を抱えていますが、そのうちの一つが「北方領土問題」です。北方領土問題は、小中学校の社会の教科書に掲載されているので、名称を知っている方は多いと思いますが、実は詳細な説明が ...

続きを見る

韓国との竹島問題や中国との尖閣問題も同様です。このような認識を通説と思っておりましたが、来春(2021年度)から使われる中学校の社会の教科書では、文部科学省が「領土問題は存在しないことも扱うこと」という新たな学習指導要領を通知しています。

竹島問題や尖閣問題は「相手側が一方的に主張していること」という位置付けになりそうですが、果たしてそれで問題解決になるのでしょうか?

残される問題の数々とこれからの日本

サンフランシスコ講和条約によって、日本は国際復帰を果たしたわけですが、ソ連が参加しなかったことで国際連合の参加が遅れたり、その後に続く沖縄返還の問題、韓国や中国との領土問題、ロシアとの平和条約の問題が残されることとなりました。またアメリカ軍駐在と安保問題が残っています。どれも難しい問題ではありますが、対話を通して解決していきたいものですね。

スポンサーリンク

こちらもおすすめ!

1

ニュースや新聞で世界情勢の話題になったとき、「国際連合」というワードを聞いたことはありませんか?最近でいうと昨年、環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんが各国首脳の前でスピーチして話題になりました。中学 ...

2

1914年から1918年にかけてヨーロッパでは第一次世界大戦が繰り広げられていました。 そしてこの戦争はヨーロッパの体制を根本から崩すこととなり、現在にもつながる影響も残すことになったのです。  今回 ...

3

世界の政治体制は、それぞれの国によって違っています。同じ民主主義国家でも、国によって大統領制をとっている国、議員内閣制の国と、政治体制の採用が違っているのです。 日本は、御存じの通り、議院内閣制を採用 ...

-ニュース, 日本史, 歴史用語
-,

© 2021 レキシデセカイ Powered by AFFINGER5