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日本史

桜田門外の変ってどうして起こったの?原因からその後についてわかりやすく解説!

2020年10月9日

日本でも度々政治の弾圧は行われることはありますが、その結果は大体悲惨な結果となってしまうことが多いです。今回解説する桜田門外の変もそんな強引な弾圧によって起こった事件だったのです。

今回はそんな『桜田門外の変』がなぜ起こったのか、理由や経過・幕府や朝廷に与えた影響について簡単に説明していきます。

桜田門外の変とは

桜田門外の変とは幕府の大老であった井伊直弼が、水戸藩を脱藩した尊王攘夷の藩士らによって暗殺された事件です。
この事件以降、幕府の威信が低下し、尊王攘夷の機運が高まり朝廷の権威が強まり、倒幕運動が始まり、明治維新へのきっかけとなりました。

桜田門外の変が起こるまでの流れ

暗殺された井伊直弼

桜田門外の変は、様々な問題が重なったために起きてしまった悲劇でした。まずは、その問題点から説明します。

①将軍の跡継ぎ問題

13代将軍徳川家定の後継者として井伊 直弼は、正当な順位継承に基づき、紀州藩主徳川慶福を推挙、それに対して元水戸藩主徳川斉昭は、実子の一橋慶喜を推挙し意見が対立していました。

②日米修好通商条約

将軍の跡継ぎ問題を抱えている最中に、アメリカとの条約締結に関して、開国政 策を進めようとする井伊直弼は孝明天皇の許可(勅許)を得ないまま条約を締結 しました。
これにより、朝廷や尊王攘夷(天皇を中心として外国勢力を追い払う政治)派の反感を買うことになりました。

③一橋派の不時登城問題

不時登城とは、登城日以外の日に登城することです。登城以外に登城することは、当時はとても異例なことでした。
徳川斉昭や一橋慶喜らは、井伊直弼が米 国との条約を孝明天皇の許可(勅許)なく締結したことを問題視し、本来の登城 日ではないにもかかわらず登城し、井伊直弼に抗議しました。
これに対し井伊直弼は、徳川斉昭や一橋慶喜らのとった行動は、不時登城であり、江戸城内を騒がせるという許されない行為であるとして、徳川斉昭らに謹慎などの処分を課しました。
ここから、安政の大獄が始まりました。 また、井伊直弼は自身が推挙した徳川慶 福を強引に将軍にしてしまいました。慶福は家茂と改名し、14代将軍徳川家茂が誕生しました。

④安政の大獄

安政の大獄とは1858年から1859年にかけて行われた大老井伊直弼らによる弾圧政策です。
日米修好通商条約が朝廷の許可なく締結されたことから、孝明天皇が水戸藩に戊午の密勅(ぼごのみっちょく)出しました。
戊午の密勅とは

ポイント

・幕府はなぜ、朝廷の許可なく米国と条件 を締結したのか説明すること
・御三家と諸藩は幕府に協力して公武合体 (幕府が朝廷の命令に従うこと)を実現 し、幕府は諸外国を打ち払うように政治改革せよ
・上記の内容を諸藩は伝えること


と言うものでした。

これは、朝廷から幕府にではなく水戸藩に出されたもので、朝廷が幕府を無視して 直接水戸藩に命令したことになります。これでは幕府の立場はなくなってしまいます。

また、朝廷が幕府の意向を無視した命令を直接諸藩に出したのであれば、幕府の権威は失墜してしまいます。今後も朝廷から幕府を介さず直接諸藩に命令するようならことがあれば、幕府にとって一大事であり危険なものになります。

危機感を持った井伊直弼は、自身の政策 に反対するもの、倒幕を企てるものは、 「幕府を蔑ろにし、幕府の権威を失墜さ せる行為をしたものや、それに従わない ものは、幕府に楯突く危険分子」として徹底的に弾圧し始めました。

安政の大獄では、

ポイント

・一橋慶喜(一橋徳川家当主)
・徳川慶篤(水戸藩主)
・徳川斉昭(元水戸藩主)
・徳川慶勝(尾張藩主)
・松平春獄(福井藩主)
・松平忠固(上田藩主)
・鷹司政通(前関白)
・近衛忠熙(左大臣)
・鷹司輔熙(右大臣)

が、隠居、謹慎処分等を受け

ポイント

・安島帯刀(水戸藩家老)
・吉田松陰(元長州藩士)
・橋本左内(福井藩士)
・梅田雲浜(小浜藩士)

らは、処刑されました。

このように多くの尊王攘夷派の関係者が次々に捕まり処分されました。

この安政の大獄により、井伊直弼は朝廷や尊王攘夷派の更なる反発を招き、井伊直弼暗殺と言う「桜田門外の変」へとつながっていきます。

桜田門外の変の経過

1859(安政6年)12月、幕府は水戸藩に戊午の密勅を朝廷に返納することを求めました。
それに対し水戸藩では、天狗党(返納反 対派)と諸生党(返納派)が対立し、天狗党は水戸藩を脱藩してしまいました。

1860(万延元年)年3月3日、水戸藩を脱藩した天狗党の藩士17人および薩摩浪人1人が、「上巳の節句のお祝い」のため登城途中の井伊直弼を「桜田門外」において襲撃し暗殺しました。

襲撃者18人に対し井伊直弼の護衛は60 余人でしたが、襲撃当日は、雪が降る天候で護衛は刀に柄袋を付けていたため対応に遅れたことや、襲撃者は銃も使用し ていたことから襲撃側に有利な状況でした。そのため井伊直弼を守ることが出来ず討ち取られ、その首を奪われてしまいました。
井伊直弼の元には以前から、不穏な動きをする者たちがいるとの情報があり、当日も情報が入っていたのですが、失政の非難により危険を感じて護衛を強化したとのではないかと判断されることを嫌い敢えて対策を講じませんでした。結局、直弼を守ることができなかった護衛たちには切腹や斬首という厳しい処分 が科せられました。

桜田門外の変のその後

井伊直弼が亡くなったことによって安政の大獄で処分を受けた一橋慶喜、徳川慶勝、松平春獄などが中心となって幕府の改革が行われました。

その後一橋慶喜は徳川家茂の将軍後見職に就くことになり、そのほかにも京都守護職や政事総裁職が創設されることになります。

幕府の権威の失墜

井伊直弼が暗殺された後、安藤信正が幕府の政策を継ぎました。
安藤信正は、幕府の権威が失墜したことから、朝廷の力を借りて権威を取り戻そうと「公武合体(こうぶがったい)」という政策を打ち出しました。
しかし、幕府が天皇と同じ地位になることが許せないとする尊王攘夷派と公武合体派」との対立が激化し、安藤信正は坂下門外にて襲撃を受けることになります。(坂下門外の変)

やがて薩摩藩や長州藩の下級武士を中心に尊王攘夷へと傾いていきました。

「尊王攘夷」から「尊王倒幕」へ

長州藩による「下関事件」、薩摩藩による「薩英戦争」で、諸外国との圧倒的な力の差を見せつけられ、外国を打ち払う「攘夷」は不可能であると考えを改めて「尊王攘夷」から「尊王倒幕」へと人々の考え方が変わっていき、倒幕そして明治維新へと続いていくことになりました。
井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」により幕府の権威が失墜したことが、その後、明治維新へと進んでいく大きなきっかけとなりました。

まとめ

桜田門外の変により、幕府の権威が失墜し、尊王攘夷派勢力が力を得て朝廷の求 心力が高まることとなり、幕府の権威が失墜したことにより、後に倒幕の気運が高まり、明治維新に影響を与えました。

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