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歴史用語

背景や経過その後などレコンキスタについてわかりやすく解説!

近代以降では、とりわけキリスト教が世界をリードしている状況ですが、イベリア半島では、イスラム教とキリスト教をめぐって「聖戦」が繰り広げられてきました。その中でレコンキスタの完了は、歴史において重大な分岐点と言えます。

レコンキスタといえば、ポルトガルとスペイン、この両国をレコンキスタの過程で成立させた歴史的重要な国土回復運動ですね。

今回は、そのキリスト教界の膨張運動「レコンキスタ」について背景や経過、その後まで詳しく解説していきます。

レコンキスタとは

 

レコンキスタとは、スペイン語で「再征服」と呼ばれ、718年から1492年まで約800年間続いたイベリア半島におけるキリスト教の国土回復運動です。レコンキスタは、後ウマイヤ朝が滅亡してイスラーム勢力が動揺したことを機に本格的に展開され、トレドなど重要拠点を奪回することでますます勢力を伸ばした。
また、1212年のラス=ナバス=デ=トロサの戦いにおいてキリスト教が勝利を収め、1251年までにはグラナダのナスル朝を除いたイベリア半島全てを手中に収めた。そして、スペイン王国が成立し、レコンキスタが完了します。

レコンキスタの背景

7世紀初頭、ムハンマドによるイスラム教創始により、ウマイヤ朝時代にはイベリア半島に進出するほど勢力が拡大していました。

一方で、476年に西ローマ帝国が滅亡し、イベリア半島はキリスト教・アタナシウス派に改宗したゲルマン系西ゴート人の王国によって支配されます。

711年、ウマイヤ朝軍は12,000人もの兵を率いてイベリア半島に侵入し、西ゴート軍と戦った結果、西ゴート軍は戦いに敗れイベリア国の大半をウマイヤ朝軍の支配下に置かれます。そして、西ゴート貴族の生き残りが、イベリア半島北西部にアストゥリアス王国を建国し、レコンキスタの拠点となりました。

レコンキスタの経過

後ウマイヤ朝時代

ウマイヤ朝の出現により、スンナ派とシーア派でカリフの地位をめぐって対立し、宗教分裂が始まりました。しかし、アッバース朝が成立したことによりウマイヤ朝の人間は弾圧を受け、ウマイヤ家の生き残りであるアブド・アッラフマーン1世は、北アフリカを渡って、イベリア半島にたどり着きました。そこでコルドバを首都に置き、イスラーム王朝を開いて政権の基礎を定めました。イスラム教徒は、ユダヤ教を含め「啓典の民」として容認していたため、支配下に置いていたキリスト教徒は地租と人頭税を納めれば、信仰と固有の法を認められていました。そのため、抵抗するものはあれど、多くの民は平和に共存し、トレド、セビリア、メリダ、サラゴサなど主要都市をいくつも征服し、最終的に首都のコルドバは人口50万もの大都市にまで発展しました。また、西ゴート王国の都であるトレドも学問の中心地として知られ、10世紀アブド・アッラフマーン3世の時代に最盛期を迎えました。しかし、カリフの称号争いに内紛が数多く発生したため、1031年に後ウマイヤ朝が滅亡し、イスラームのイベリア支配は、王国が30ほど分立する混乱時代となりました。そのイスラーム勢力の分裂を機にレコンキスタが勢力を強めていきます。

後ウマイヤ朝衰退後

そこで、レコンキスタとの関わりで重要な位置を占めた3王国が、サラゴサ・セビリャ・グラナダです。アラゴン王国歴代の王はサラゴサに侵攻し、教王の呼びかけによる連合軍も結成されましたが、あえなく失敗に終わります。一方で1085年、カスティーリャ=レオン王国のアルフォンソ6世がトレドの奪回に成功し、危機に陥ったイスラーム諸国はムラービト朝の支援を要請しました。ムラービト朝は、それに応えるようにジブラルタルを超えて侵攻し、1086年のザグラハスの戦いによって、レコンキスタ勢力を追い込むことができましたが、アルフォンソ6世の下に仕えているエル=シドの活躍により、1094年にバレンシアを奪回しました。
しかし、遊牧ベルベル人が次第に戦闘意欲をなくし、弱体化したことを機に1147年、ムワッヒド朝により滅亡しました。

ムワッヒド朝の侵入

1147年にムワッヒド朝がムラービト朝を倒してから、1160年にアンダルスを強大な軍事力を持って勢力下に収めました。
カリフであるヤークーブ=マンスールは、1195年アラルコスの戦いにてカスティーリャ=レオン王国アルフォンソ8世に勝利し、トレドにまで侵入しましたが、これに対し、トレドの司教らの働きかけにより、ローマ教王はキリスト教国に「十字軍」を招集し、キリスト教国らの戦闘停止とムワッヒド朝に対する一致団結を求めて戦い、一進一退を繰り返しました。この聖戦の行く末を分けたのは、1212年のラス=ナバス=デ=トロサの戦いです。

ラス=ナバス=デ=トロサの戦いは、両勢力とも激しい戦いとなりましたが、士気の高いキリスト教軍は、兵力で上回るイスラーム軍に対し、見事に勝利をおさめ、この戦いの結果、ムワッヒド朝は急速に衰え、また支配下に置かれていたアンダルスは、ムワッヒド朝がマグリブに撤退した後にカスティリャ王国とアラゴン王国に征服され、1269年マリーン朝により滅ぼされました。これにより、ムワッヒド朝期に農村部のイスラム化とモロッコのアラブ化が進むことになります。

ラス=ナバス=デ=トロサの戦い以後、キリスト教勢力のイスラーム勢力に対する優勢が決定的となり、コルドバを始めに1248年にはセビリャを征服し、ポルトガルではアフォンソ3世が1249年にまでにファロ、シルヴェスを奪回しイスラーム勢力を排除しました。1251年までに1237年に成立したグラナダのナスル朝を除くすべてのイベリア半島を手中に収めることになります。

ナスル朝グラナダ王国に関しては、イベリア半島最後のイスラム王朝として約250年間存続し、経済・文化が繁栄しました。約250年にもわたって、首都グラナダで維持できたのはカスティリヤ王国との友好関係を保つなどの外交政策により独立を保ち、「赤い城」という意味を持つアルハンブラ宮殿も建設されました。

レコンキスタの完了

1469年にスティリャの王女イザベルとアラゴンの王子フェルナンドが結婚し、アラゴン王にフェルナンドが即位した結果、1479年に両国が統合し、スペイン王国が成立しました。二人は、イベリア半島最後のイスラム王朝グラナダのナスル朝を崩落させ、アルハンブラ宮殿が開城。結果、イスラーム勢力は北アフリカに後退し、勝利したスペイン国は、レコンキスタを完了させました。

しかし、降伏協定はイスラーム教に対し、信仰の自由、独自の習慣の維持などを守って、イベリア半島に移住しても良いことが保証された寛大な条件でした。一方、レコンキスタで激しくイスラム教と戦ったキリスト教で次第に異教徒に対する敵意が芽生えたことを背景にユダヤ教徒は、キリスト教への改宗か国外退去かの2択を迫られる「ユダヤ教徒追放令」が出され、イスラーム教に比べて厳しい措置が為されました。そのため、多くのユダヤ人はキリスト教に改宗しました。これを機に異教徒の存在を許さないという風潮が流れ、イザベルとフェルナンドの二人は「カトリック両王」とよばれるようになりました。

レコンキスタ完了後も、イスラム教徒としての信仰や習慣を貫いた人々を「ムデハル」と呼び、彼らは、建築や手工芸などの分野で活躍し、イスラム教徒キリスト教を融合させた異文化を後世に残しています。首都コルドバにあるアルカサル王宮もその例の一つです。

レコンンキスタ以後の展開

レコンキスタ完了とともに、コロンブスが同時期にスペイン王の命令により西インド諸島のサン=サルバドル島へ到達し、最終的には大西洋横断を成功したことで、大航海時代が展開されていくようになります。

大航海時代によるヨーロッパ諸国による新航路や新大陸の発見は、レコンキスタによる宗教改革とともに大きな転換をもたらしたと言えるでしょう。

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