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世界史

清教徒革命とはどんな革命?背景や経過など簡単にわかりやすく解説!!

社会の政治構造を大きく変えた市民革命の一つに、イギリスで起こった「清教徒革命」があります。

清教徒というキーワードだけ聞くと、宗教的な闘争のイメージを持たれるかもしれませんが、むしろそれぞれの宗派を支持する人々の権力闘争により、近代イギリスの政治システム、すなわち「法による支配」が確立されたところに、その意義があるといえるでしょう。

今回は、清教徒革命が起きた背景からその後の王政復古までの流れも含めて、簡単にわかりやすく解説していきます。

清教徒革命とは?

清教徒革命(ピューリタン革命)とは、1642年から1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命で、1642年に始まった国王派と議会派の内戦から国王処刑・共和制開始までの間で行われました。

結果として国王のチャールズ1世は処刑され、王政は廃止。イングランド共和国が樹立されます。その後オリバー・クロムウェルが「護国卿」という最高統治権をもつ官職に就任。事実上の独裁政治を率いることとなりました。

そもそも清教徒とは?

「清教徒」とは、イギリスにおけるカルヴァン派の人々を指します。禁欲や勤労をモットーとし、多くの独立自営農民や地主貴族層であるジェントリに支持されていました。
したがって、元々宗教上の教義をめぐって対立していたカトリックやイギリス国教会、国王から様々な特権や利権を得ていた貴族・大商業資本家からは、異分子とみなされていました。

清教徒革命が起こった背景

王朝の交代~チューダー朝からステュアート朝へ

1603年に即位したジェームズ1世は、元々スコットランド王として即位していたのですが、前女王のエリザベス1世に子供がいなかったために、ジェームズがイギリス王としても即位することになりました。このためイギリスでの財政基盤が弱く、特権商人に独占権を与えて財政を立て直そうとしました。

彼は「国王の支配権は神から授かった絶対的なものであり、何人も侵せるものではない」とする「王権神授説」を信じ、議会を無視しました。

また、即位直後の1604年に開かれた会議において、カトリックと清教徒の排除を宣言したことから、これらの宗派の信者からも反発を招きました。

チャールズ1世の治世

チャールズ1世

1625年に即位したチャールズ1世は、父のジェームズ1世と同じように王権神授説を支持、議会と対立しました。

外交面ではフランスのルイ13世の妹を迎えて彼女のカトリックの信仰を認めたため、国民の不信を招いてしまいます。
1625年10月には英西戦争を始め翌年2月、戦費に充てる特別税を求めるために議会を招集しますが失敗。

議会解散を命じた結果、戦費を得られなかっただけではなく、これをきっかけにフランスと対立することになり、 さらに特別税の代わりに強制借上げ金を徴収したことで、議会との溝が広がっていきました。

内政面では国王大権を濫用して強引な徴税や逮捕を行い、特別裁判所である星室庁などを利用して反対派を処罰。

また側近の助言により宗教を国教会に統一しようとして清教徒を弾圧し、カルヴァン派の一派である長老派が多かったスコットランドにも国教会を強制しようとして、各地で反乱が起きました。

清教徒革命の経過

王権神授説とコモン・ロー

1628年3月、特別税獲得の目的で再び議会が招集されました。 しかし反対派から「権利の請願」が提出されます。

権利の請願の内容は、1215年に認められたマグナ・カルタを基に、「議会の同意のない課税や逮捕は認められない」という主張を盛り込み、国王の行為の不当性を並べ立てたものでした。

しかし、反発したチャールズ1世は同年6月に議会を停会。翌年1月に議会を再開するものの3月には再度解散し、1640年まで再び召集することはありませんでした。

スコットランド反乱、そして内戦へ

1639年、スコットランドの王党派と盟約派の争いから内乱が起き、王党派支援のためにスコットランドへ出兵します。

翌年4月、反乱の鎮圧のための増税決議を試みましたが失敗し(短期議会)、8月には国王軍は敗北して和解成立までのスコットランド軍の軍費を支払う羽目になりました。
そのため財政難に陥り、11月には長期議会を招集。この議会では国王大権の制限のため改革法案を立法化し、独占権の禁止や定期的な議会の開催、議会の同意のない解散・課税の禁止、星室庁裁判所の廃止などが決定されます。

1641年11月、再び議会から国王に対して国王の悪政を箇条書きにした大抗議書が提出されます。 しかしチャールズ1世はこの承認を拒否し、議会の指導者の引き渡しを要求。また、議会から国王への和平提案(19カ条提案)も拒否されたため、両者はついに内戦に突入します。 (第一次内戦)

どのような派閥があった?主要派閥のおさらい

ここで、当時の政治派閥について確認しておきましょう。

国王派

大抗議書の趣旨に賛同せず国王側についた議員たちや、そのリーダーを指します。ほぼ国教会信徒によって構成されていました。

議会派

議会派は国王と対抗した議員の派閥で主にイングランド東南部で支持されました。基本的には国教会改革を唱えていましたが、求める改革の方向によっていくつかの派閥がありました。

特に以下の3派閥が有名です。

長老派(プレスビテリアン)

国王派との和解に積極的姿勢を示した穏健派。
一般信者の中の有識者を選んで長老とし、教会を運営するべきという「長老主義」を主張して、同じ宗教上の長老正教会を擁するスコットランドと友好関係を保ちました。
多数派でしたが、後にチャールズ1世と妥協を図って独立派と対立。独立派が中心となって起した軍事クーデターにより追放されます。

独立派

他のイングランド国教会からの分離派と長老派の中間的思想を持つ党派で、各教会の独立を尊重する考え方を持ち、革命を積極的に推進した議会内勢力です。

オリバー=クロムウェルなどのジェントリ・独立自営農民に支持され、内戦においては主戦派。後に軍や平等派と共闘して長老派を追放し、議会を掌握して国王を処刑しました。

平等派(水平派)

独立派の中から、平等な政治体制の実現を求めて社会契約や普通選挙の導入を主張した一派。兵士やロンドンの一般市民に支持され、宗教的な教義よりも政治的主張を重視しました。

成立当初は独立派と共闘していましたが、共和制以降は対立、1650年以降弾圧され衰退していきます。

クロムウェルの台頭と第一次内戦の終結

オリバー・クロムウェル

1643年頃までは、各地からの寄せ集めで編成された混成部隊の議会軍に対し、正規訓練を積んだ国王派の方が優勢でした。しかし、その中で一目置かれていたのが独立派のクロムウェルです。

クロムウェルは、ケンブリッジ選挙区から下院議員として選出されたジェントリです。
長期議会においては議会派に属して、議会派のリーダーであったジョン=ピムの下で、王権を縮小する数々の法案や議会の大講義書・民兵条例などの重要法案の起草に携わりました。
彼は私財を投じて作り上げた「鉄騎隊」を率いて各地で戦い、評価を得ていきます。

44年になると、戦闘の長期化に伴い財政危機を迎え始めた両軍は、国王軍はアイルランド・カトリック同盟と、議会軍はスコットランド盟約派と手を結びます。

同年7月2日のマーストン・ムーアの戦いで議会派は王党派に勝利し、その後の戦局は次第に議会派へ有利になっていきます。ですが、この際の戦果の功労者の認識の違いから、議会派内部では長老派と独立派の対立が激しくなっていきました。

45年には既存の軍を再編成し、クロムウェルの率いる鉄騎隊を中核とした議会派のニューモデル軍が誕生します。
同年6月のネイズビーの戦いで議会派の勝利が決定的となり、1646年5月にはチャールズ1世がスコットランド軍に降伏。1647年1月にイングランド議会へ身柄を引き渡され、ひとまず内戦が終結しました。

議会派の内部対立の表面化

第一次内戦後、財政難からニューモデル軍の維持は困難となっていきました。独立派の多いニューモデル軍に対して、議会を仕切る長老派は警戒心を抱き、軍の解散を目論むようになります。

これに反発した兵士たちの一部が、ジョン=リルバーンの指導する平等派に入り、政治改革を主張し始めます。
平等派は1647年10月、人民主権や財産の平等化などを掲げた「人民協定」を軍幹部に提出しますが、ジェントリ出身のクロムウェルはこれを否定。長老派と独立派の対立だけではなく、独立派と平等派の対立も明らかとなっていきました。

独立派の政権掌握

1647年11月、軟禁されていたチャールズ1世が脱出。議会軍と仲違いしたスコットランドとチャールズ1世・国王派は互いに手を組み、翌年3月、チャールズ1世はワイト島へ逃亡し再決起を図りますが、再度クロムウェルに敗れました(第二次内戦)。

しかし、内戦終結後も議会と軍の対立構造は解消されず、議会はチャールズ1世との和睦を工作。軍の抗議も無視されたために、1648年12月6日、軍事クーデターが決行されました(プライドのパージ)。
長老派の議員は追放され、クーデターには慎重だったクロムウェルも、残った議員たちで構成された議会(ランプ議会)を承認します。

ランプ議会は1649年1月にチャールズ1世の処刑を敢行、「イングランド共和国」の成立を宣言しました。

清教徒革命後はどうなった?

議会の混乱からクロムウェルの独裁へ

革命の主導権を握っていた独立派は、保守に転じて平等派との同盟を解消し、平等派の弾圧をするようになります。さらに、私有財産制を否定し土地の共同耕作という社会主義的な理想を掲げる真正水平派(ディガーズ)も抑え込みました。

また、国王派の封じ込めを名目として、アイルランドを征服。同地において残虐行為・略奪を行い、現在に至るまでその禍根を残しています。

1650年には、チャールズ1世の息子・チャールズ2世を擁立し南下の勢いを見せたスコットランドに対し、逆にスコットランドを征服。チャールズ2世はフランスに亡命し、スコットランドはイングランドに吸収されました(第三次内戦)。

1651年、議会はオランダの中継貿易を阻止するために「貿易の際の商品の輸送をイギリス船か相手国の船に限定する」とした「航海条例」を発布。これをきっかけに起こった英蘭戦争にイギリスが勝利した結果、長期的にはイギリスは植民地からの利益を得やすくなり、後のイギリスの資本蓄積のきっかけになります。
しかし、短期的にはこの戦争による軍事費が財政状況をさらに悪化させ、議会は軍縮を求めます。

クロムウェルは1653年4月にランプ議会を解散。同年秋には元首である護国卿の地位に就き、クロムウェルと彼の率いる独立派や軍からなる単独政権となりました。

しかし、護国卿の権限は「統治章典」によって制限されていたものの、各地で相次ぐ反乱のため強権的にならざるを得ず、徐々に独裁の色合いを帯びてきます。それでも、「議会の同意なき課税は無効」という伝統の前に議会を再召集せざるを得ず、上院の復活を認めるなど王政復古の下地が積み重ねられていきました。

王政復古

1658年9月のクロムウェルの死後、息子のリチャードが護国卿の地位を継ぎますが、財政問題から1659年5月、ランプ議会を再開。しかし、事態を収拾することができずに彼が護国卿の地位を退いた後は、無政府状態に陥ります。

1660年5月、チャールズ2世がブレダ宣言を発して王位への復帰を表明。オランダより帰国し、王政が復活しました。
しかしブレダ宣言の中で認めたはずの信仰の自由を撤回したり、議会を解散させるなど以前の王政に戻そうとしたため国民の反発を招き、後の名誉革命につながっていきます。

まとめ

清教徒とは革命の担い手となりましたが、。その背景には、王朝の交代により新たに国務を担当したステュアート朝が王権神授説を支持、イギリスの伝統であったコモン・ローを無視したことがありました。

国王の処刑後は議会派内部の分裂から政局が混乱て事態を収拾するためにクロムウェルの独裁体制となりましたが、この革命はイギリスの歴史にとてつもない影響を及ぼしたのです。

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