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世界史

宗教改革てどうして起こった?ドイツ・スイス・イギリスの宗教改革について簡単にわかりやすく解説!

世界史の重要な出来事の1つとして宗教改革があります。宗教改革では、現在プロテスタントと呼ばれているキリスト教の宗派が生まれました。
16世紀のヨーロッパでは、カトリックの教皇や聖職者の傲慢な行為が横行しており、それに対する不満が募っていました。この不満が爆発して起こったのが宗教改革です。
宗教改革はドイツで始まり、ヨーロッパ各地のキリスト教徒に大きな影響を与えました。
今回は、宗教改革の重要な部分であるドイツ・スイス・イギリスでのできごとを解説します。

宗教改革とは?

95か条の論題を城教会の門に貼りだしたルター

宗教改革とは、16世紀のキリスト教世界における革新運動のことを指します。

このころカトリックは腐敗しており贖宥状を販売する体たらくであったのですが、これを見たルターの批判がきっかけとなって勃発しました。

ルターは教会を通じてではなく、神のそのままの言葉を大切にするべきという考え方であったため本来ならラテン語しか書かれるはずのなかった聖書をドイツ語に訳して出版します。

その後聖職者の堕落などに不満を抱いていた信徒たちも立ち上がり、ドイツ・スイス・イギリスを中心としてローマ・カトリック教会から分離して新しくプロテスタントと呼ばれる各宗派が誕生しました。

宗教改革が始まった背景

宗教改革が始まった背景として、ルネサンス期に生まれた人文主義と教皇レオ10世の贖宥状があります。

人文主義

14世紀から始まったルネサンスで、人文主義という思想が高まりました。人文主義とは、神様中心の世界観ではなく人間に注目しよう、というような考え方です。
この人文主義の影響を受けた思想家が宗教改革の活動を始めました。
人文主義は、キリスト教の教えがすべてだというカトリックとは対立することになります。

教皇レオ10世の贖宥状

レオ10世

1513年にローマ教皇に就任したレオ10世は、サン・ピエトロ大聖堂の再建を考えていました。そのための資金集めとして、レオ10世は贖宥状(免罪符)の販売を始めます。
贖宥状とは「買うと天国に行くことができる」と言われたお札で、カトリックを信仰していた人の中には、この贖宥状を買って天国に行こうと考える人は多くいました。
しかし、キリスト教の経典にはこのような記述はなかったため、ルターをはじめとする思想家たちに批判されました。
宗教改革は、この贖宥状に対する批判から始まったのです。

ドイツ・スイスでの宗教改革

ドイツではヨーロッパで最初に宗教改革が始まり主にルターが活躍しましたが、この波はヨーロッパの各地に広まることになるのです。

ルターの活動

95か条の論題

宗教改革はドイツの大学教授マルティン・ルターによって本格的に開始します。
ルターはレオ10世の贖宥状を批判し、1517年に『95ヶ条の論題』を教会の扉に張り出しました。『95ヶ条の論題』が発表されたことによって、宗教改革は本格化します。また、当時ドイツでは聖書がドイツ語に翻訳されていませんでした。しかし、ルターが聖書をドイツ語に翻訳したことで聖書の内容を人々が理解できるようになったのです。これによって、贖宥状の不当性に気づく人々が増えました。ルターは『95ヶ条の論題』以外にも著書を発表しています。
ルターの著書はルネサンス期に開発された活版印刷によって、大量に生産されました。そのため、ルターの思想はヨーロッパ中に広まることとなります。
ルターの思想を支持した人々はプロテスタントの中でも、ルター派として区別されました。

スイスの宗教改革

カルヴァン

スイスではルターの影響を受けたフルドリッヒ・ツヴィングリが宗教改革を開始します。ツヴィングリは1519年から贖宥状批判の活動を始めました。
1529年にツヴィングリはルターとの会談を行います。この会談では、互いに反カトリックの活動を協力しようというものでした。しかし、意見が一致しなかったため、協力体制をつくることはできませんでした。
1531年にはツヴィングリ達プロテスタントとカトリックによる内戦が勃発します。この戦争でツヴィングリが戦死したため、スイスの宗教改革は中断してしまいます。

スイスの宗教改革を再開させたのはフランス人神学者ジャン・カルヴァンです。カルヴァンはもともとフランスで人文学者として活動しており、ルターの影響を受けてプロテスタントになっていました。しかし、フランスのパリでプロテスタントの迫害が強まったので、1534年にスイスに亡命しました。
1536年には『キリスト教綱要』を出版し、プロテスタントの活動家として注目されます。これによって、スイスの宗教改革は活発になっていきます。

ポイント

―予定説―

カルヴァンは宗教改革の中で予定説というものを唱え、多くの人々の支持を獲得していました。予定説とは、「人間の運命は生まれた時から神によって定められている」というものです。
すでに神によって運命は決められているから、贖宥状を買っても意味がないとカルヴァンは主張したのです。
この思想はルターの思想とは違うため、同じプロテスタントでもルター派・カルヴァン派として区別されます。
また、この考え方は商工業者などの中産階級に支持されました。特にフランス・イギリスには強い影響を与え、フランスのカルヴァン派はユグノー、イギリスのカルヴァン派はピューリタンと呼ばれました。

イギリスの宗教改革

イギリスの宗教改革はドイツやスイスとは違った理由で開始されます。
ヘンリー8世がイギリス国教会を創設し、エリザベス1世がイギリス全体に定着させていきました。

ヘンリー8世の活動

ヘンリー8世

1509~1547年にイギリス国王だったヘンリー8世は、1534年に首長法(国王至上法)を成立させました。

首長法とは、イギリス国王を教会の首長と定める法律です。これによって、イギリス国教会という新たなプロテスタントの宗派が誕生します。
また、ヘンリー8世がイギリス国教会を創設した目的は妻と離婚するためでした。

ヘンリー8世はもともとカトリックを信仰していました。しかし、結婚相手のキャサリンとの間に男の子が生まれなかったため、後継ぎがいなくなってしまうという問題が生まれます。

そこで、ヘンリー8世は別の女性と結婚しようと考えましたが、カトリックでは離婚を禁止しているため、ヘンリー8世は離婚できません。ヘンリー8世は後継ぎがいなくなってしまうことを強く問題視したため、カトリックとの対立を覚悟してイギリス国教会を創設したのです。

ドイツやスイスの宗教改革は贖宥状の批判が原因であったのに対して、イギリスの宗教改革は教義に対する不満が原因となったわけです。

メアリー1世の活動

ヘンリー8世によって創設されたイギリス国教会は、メアリー1世の活動によって弾圧されてしまいます。
メアリー1世はヘンリー8世の娘で1553~1558年の間イギリスの女王でした。メアリー1世は親のヘンリー8世が創設したイギリス国教会を信仰しておらず、カトリックを信仰していました。
そのため、メアリー1世はカトリックを復権させるためにイギリス国教会を含むプロテスタントの迫害を始めます。これによってカトリック勢力が力を強めることになります。
ちなみに、メアリー1世の迫害の様子はとても激しいものだったため、人々はメアリー1世のことを「血のメアリー(ブラッディ・メアリー)」と呼んだそうです。

エリザベス1世の活動

エリザベス1世

エリザベス1世は1558~1603年にイギリスの王位についていた女王です。エリザベス1世は女王に就任してすぐに、メアリー1世の行ったカトリック復権政策を廃止しました。これはイギリス国教会の繁栄を目指したからです。

エリザベス1世がイギリス国教会を復活させる目的は、宗教統制によって国を動かすためでした。ヘンリー8世とは全く違う理由だったようです。
1559年には、メアリー1世が廃止していた首長法を再び制定して、イギリス国教会を復活させます。

また、イギリス国教会はプロテスタントではありますが、教義の部分でカトリックと共通する部分が多いため、カルヴァン派などの宗派と対立することになります。

まとめ

ルネサンスで成長した人文主義の思想がカトリックと対立して宗教改革の意思が生まれ、そして、教皇レオ10世の販売した贖宥状に対して、ルターが批判をしたことでドイツでの宗教改革が本格的に始まりました。

この宗教改革によってヨーロッパでは新しい局面を迎えていくようになるのです。

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