スポンサーリンク

世界史

プラハの春とは?後世に大きな影響を与えた冷戦期の事件について解説!

2020年8月17日

「プラハの春」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは東西冷戦の真っただ中にあった1968年にチェコスロバキアで発生した事件の呼び名です。

共産党の抑圧に苦しんだチェコスロバキアによっておこった政治の変革を要求するこの事件で、チェコスロバキアは歴史上に大きな影響を与えました。

今回は事件が起こったチェコスロバキアとプラハの春について簡単に見ていきましょう。

プラハの春の概要

プラハの春とは1968年に東側陣営に属する社会主義国家のチェコスロバキアで起こった変革運動です。

人間の顔をした社会主義をスローガンに掲げたチェコでしたがこれに危機感を抱いたソ連はワルシャワ条約機構軍を動員して軍事介入を行い、わずか8ヶ月で頓挫しました。

しかし、社会主義国家で起こったこの変革運動は後の東ヨーロッパ諸国の民主化に影響を与えました。

プラハの春の時代背景

1968年といっても、年代を聞いて当時の時代背景や国際情勢をパッと思い浮かべることができる人は少ないのではないでしょうか。
まず、当時がどのような状況だったのか、見ていきたいと思います。

第二次大戦から冷戦へ

第二次世界大戦当時、日独伊の枢軸国に対して米英ソ仏をはじめとする連合国が世界中で戦争を繰り広げていました。特にヨーロッパを見ると、その大半を支配したドイツに対し、東側ではソ連が、西側では米英仏が主に戦闘を行っていたと言えるでしょう。
戦局は徐々に連合国側有利になって行き、1945年、ドイツは降伏することになります。ドイツ及びその支配地域は、東側はソ連、西側はアメリカが中心となって占領されました。また、ドイツ本国は米英仏ソの四か国が分断統治されることになりますが、米英仏の占領下にあった西側、ソ連の占領下にあった東側がそれぞれドイツの名を冠され独立することになります。東西ドイツの誕生です。
さらに、ドイツ以西の欧州諸国は既にドイツ支配下より解放され、以東の欧州諸国もまたソ連の影響下にある社会主義国として独立しています。こうして、東西ドイツを最前線にした冷戦構造が誕生したのです。

そのときチェコスロバキアは?

では、戦乱の最中、チェコスロバキアはどのように立場にあったのでしょか。
チェコスロバキアは、現在のチェコ共和国、スロバキア共和国の場所に位置する国家です。ドイツの東側にあって第二次大戦期はその支配を受けていましたが、戦争末期、ソ連軍に解放されたチェコスロバキアは実は、ただちに社会主義体制になったわけではありませんでした。
議会と内閣には共産系、非共産系のいずれの勢力もいたというのが当時の状況でした。そんな中、武力やソ連の影響力も利用しながら共産党単独政権が誕生。非共産系を排除しながら社会主義国となりました。1948年のことです(正式には1960年、新憲法を採択して社会主義国化)。

共産党の支配

チェコスロバキア共産党の党旗

さて、これまでチェコスロバキアの歴史について簡単に見てきましたが、共産党単独政権はどのような政治を行ったのでしょうか。
共産党の政治について見ていきます。

まず、政治は共産党の独裁によって行われます。現在の中国と同様、他の政党は認可されたものに限り存在を許されるものの、政権は常に共産党が独占していました。
さらに、共産党独裁政治を取り上げる上で忘れてはならないのが粛清です。粛清という言葉は必ずしも殺害等を含むわけではありませんが、社会主義各国では殺害を含めた非人道的行為が行われました。そういった意味での粛清です。
東ドイツには国家保安省(シュタージ)と呼ばれる組織がありました。一般に秘密警察とされ、国内外においてさまざまな任務を実施していたものです。粛清と関連のある分野では、国民の監視がその大きな仕事でした。シュタージは多くの密告者を抱え、国民を監視しました。一説には百人から数十人に一人とも言われる密告者による監視網は世界史上他に類を見ない規模であり、東ドイツ社会は家族を、友人を相互監視し密告する社会だったといいます。
こうした東ドイツの例は少し極端で、他の社会主義国でも東ドイツほどの監視網を作り上げた国はほとんどありません。しかし同時に、多くの社会主義国で国民の監視や粛清が行われていたこともまた事実なのです。
例えばチェコスロバキアにおいては大規模な粛清が実施されました。こうした粛清や共産党政治への不満が、後の「プラハの春」に繋がることになったのです。

人間の顔をした社会主義

アレクサンデル・ドプチェクスロバキア共産党第一書記 Wikipediaより引用

前述したような粛清に代表されるチェコスロバキアの政治に対して、国内では急速に不満が高まっていきます。この不満は1960年代になると噴出し、作家などの知識人、学生層などが批判を行う事態にまで発展しました。
こうした流れの中で、共産党のトップである党第一書記の座に座ることになったのがアレクサンデル・ドプチェクという人物です。
彼が打ち出したのが「人間の顔をした社会主義」と呼ばれる政策でした。結果として、この政策は米英等に代表される自由主義陣営の理念を一部反映したようなものになりました。具体的には言論の自由や検閲の廃止など、現代日本でも当然認められているものを盛り込んだのです。
この自由化・民主化を要求する民衆の要求、そして要求に対する共産党内での肯定。一連の流れと政治改革をプラハの春と呼ぶのです。

チェコ事件

プラハ市内に突入するソ連の戦車

ここまでなら「良い話」で終わるところなのですが、残念ながらまだ終わりません。「プラハの春」という政治改革には続きがあります。
それを理解するために、当時のソ連や他の社会主義国の視点になって考えてみましょう。
さてプラハの春と呼ばれる政治改革の原因は、粛清に代表される共産党の強権的政治だと説明しました。これは、他の社会主義国でも同様の状況であったともいえるのです。先ほどは東ドイツを例に出して説明しましたが、そうしたことは東ドイツやチェコスロバキアに限らず行われていました。

当然、国民が不満をもっていたのはチェコスロバキアだけのはずがありません。仮に東側諸国の国民がチェコスロバキアで発生したことを知ったとしたら、自国でも同様の要求をするということは容易に想像できる事態です。
こうして東側諸国はそれぞれ、チェコスロバキアで発生した一連の政治改革に対して何らかの対応をとる必要に迫られます。
そして、ソ連はじめ各国がとった対応は、チェコスロバキアに対しては厳しいものでありました。各国から非難が飛び交い、最終的には軍事介入にまで発展します。1968年8月、ワルシャワ条約機構軍が越境、そしてチェコスロバキア全土を制圧しました。
無論、チェコスロバキア国内では少なくない反発が生まれますが、戦力差は圧倒的でした。国際社会でも問題視されますが、そこは拒否権をもつ国連安保理常任理事国のソ連です。ソ連の問題に関して国際社会が介入することは極めて難しい状況でした。
そしてドプチェクは共産党第一書記を退き、1970年には共産党を除名されます。こうして自由化・民主化運動「プラハの春」は完全に終結することとなったのです。
知識人と民衆、そしてA・ドプチェクらによる自由化・民主化への動きはここに潰えたのでした。そして、この後もチェコスロバキアでは共産党独裁政権が継続していくことになります。この後に行われた知識人層による体制批判、「憲章77」に対しても圧力がかけられるなど、人権抑圧的な政治が続けられたのです。

まとめ

結局、チェコスロバキアの民主化はビロード革命が起こる1989年にまで待たなければなりません。さらに1993年にはチェコとスロバキアが分離し、現在の姿になりました。
しかし、だからといって無駄だったわけではありません。「プラハの春」に始まった自由化・民主化の流れは後の東欧諸国で行われた民主化革命へと続いて行きます。「プラハの春」は、東欧諸国民主化への偉大なる一歩だったのです。
実際、「プラハの春」に軍事介入したワルシャワ条約機構軍構成国、東ドイツ、ソ連、ブルガリア、ハンガリー、ポーランドの内政干渉であり、誤りであったことを認める発言を1989年になって行いました。冷戦の中期に発生した自由化・民主化を求めるこの事件。民主化革命ではなく共産党政権、つまりは上からの改革によってなされようとしていたそれが他国の介入により潰されたという事実は、後の民主化革命、そして冷戦の終結と繋がり、まさに「歴史の転換点」であったといえるのではないでしょうか。

スポンサーリンク

こちらもおすすめ!

1

ニュースや新聞で世界情勢の話題になったとき、「国際連合」というワードを聞いたことはありませんか?最近でいうと昨年、環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんが各国首脳の前でスピーチして話題になりました。中学 ...

2

1914年から1918年にかけてヨーロッパでは第一次世界大戦が繰り広げられていました。 そしてこの戦争はヨーロッパの体制を根本から崩すこととなり、現在にもつながる影響も残すことになったのです。  今回 ...

3

世界の政治体制は、それぞれの国によって違っています。同じ民主主義国家でも、国によって大統領制をとっている国、議員内閣制の国と、政治体制の採用が違っているのです。 日本は、御存じの通り、議院内閣制を採用 ...

-世界史
-, ,

© 2021 レキシデセカイ Powered by AFFINGER5