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世界史

インドとパキスタンはどうして仲が悪いの?インド・パキスタン分離独立を時系列的にわかりやすく解説!

世界には隣国同士で仲の悪い国がたくさんあります。その経緯は様々ですが植民地支配による悲劇によって対立が生まれたのがインドとパキスタンでした。

今回はイギリスの分割統治の政策によって起こった悲劇であるインド・パキスタン分離独立について解説していきます。

インド・パキスタン分離独立とは?

イギリス領インドにおけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分布(ピンクがヒンドゥー、緑がイスラム、黄が仏教)

インド・パキスタン分離独立とは、1947年8月14日および15日にイギリス領インド帝国が解体し、インド連邦とパキスタンの二国に分かれて独立した出来事のことです。基本的に、ヒンドゥー教の地域はインド連邦に、イスラームの地域はパキスタンとなりました。インド・パキスタンの分離独立問題は、両国の持つ民族的、宗教的対立の歴史の産物です。そして分離独立問題の影響は今日にも色濃く残っています。従って、インド・パキスタン分離問題を知ることは現代の両国を理解する上でかかせない出来事として捉える必要があります。
そこで、この記事ではインドがイギリスの植民地だった時代から歴史を振り返り解説していきます。

イギリスの東インド会社によるインド支配

イギリス東インド会社の社旗

イギリスのインド支配の歴史は1600年の東インド会社設立まで遡ります。この会社は、アジアにおいて独占的に貿易を行っていました。ほどなくして、オランダにも同様の会社で設立され、二社はしのぎを削り合う関係となります。

イギリスのインド会社はオランダのインド会社に次第に遅れを取るようになります。16世紀の中頃にはイギリスのインド会社は東南アジアから撤退し、インドにビジネスの主眼を置くようになりました。東インド会社は北東にあるフランスと結びつきの強いベンガル地方へ侵攻し、その地の主導権を得ました。1765年以降はベンガル地方の徴税権と行政権を得ました。インド会社が得た権利をディーワーニーと呼びます。それまで貿易の独占権しか持っていなかった東インド会社は、もはやインドの統治機関となっていました。

シパーヒーの反乱

イギリスのインド支配はとどまることを知りませんでした。カルカッタ、ボンベイ、マドラスなどに拠点を構え、インド広域を支配できるようになりました。当時のインドは、イスラームのムガル帝国という王国によって統治されていましたが、東インド会社の支配が強まるにしたがって、その立場を相対的に弱めています。さて、この時、イギリス側はインドを綿交易の歯車の1つとみていました。インドは、イギリス本国への綿の供給地、本国で生産された綿製品の販売地と目されました。その結果、インドから安価で購入された綿は産業革命によって技術が進歩したイギリスで加工され、インドに製品として再度輸入されるというルートが確立されました。インドにあった綿工業は、材料調達と綿製品の価格・質の両方においてイギリスからの輸入品に勝つことができなくなりました。自国の綿花が他国に渡って、自国の産業を苦しめるのは何とも皮肉な話です。この一例で見たような、イギリスの圧政は次第にインドの人々の間に反英感情を抱かせました。その結果起こったのが1858年に起きた、シパーヒーの反乱です。この反乱はインド会社によって編成されたインド人傭兵「シパーヒー」が北部の都市メーラトで蜂起したものです。反乱はすぐに全国へ拡大しました。反乱軍は、ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を取り込みました。彼を反乱軍の最高指導者としたのです。しかし、最初は優勢だった反乱軍ですが、イギリスの新しい火器によって遠くから狙撃されることによって形勢が逆転します。結果、1年足らずで反乱は鎮圧されました。皇帝が最高指導者についていたことから、ムガル帝国は解体され、消滅しました。また、インド会社は反乱の責任を取らされ、解散になりました。以後、イギリス政府がインドを直接統治するようになりました。1877年には当時のイギリス女王ヴィクトリアを皇帝とする「インド帝国」が成立しました。

インド帝国時代―イスラームの対応力の弱さ

インド帝国時代は、多数派のヒンドゥー教徒と少数派のイスラームの明暗や後のヒンドゥー・イスラームの対立の発端と見なすことができます。ムガル帝国はイスラーム色のある帝国でした。従って、イスラームはムガル帝国時代には特権階級に位置していました。しかし、支配がインド帝国に取って代わられると、それまで持っていた社会的地位は消え失せ、ただのマイノリティーとなっていまいました。また、イスラームには、イギリスの直接統治への柔軟さも欠けていました。これはイスラームが持つ厳格な教義とイギリスの直接統治が相いれなかったためであると考えられます。その一方、ヒンドゥー教には柔軟な適応力がありました。ヒンドゥー教は、異国の様々な神や文化をそれまで持っていた自文化に取り入れる性質を持っています。西洋文化や英語にも比較的寛容でした。よって、医師や弁護士など新しい社会で出世しやすい職種にも門が開かれていました。支配階級が変わっても、それなりに適応できたようです。宗教対立ではなく、対英路線の価値観や社会での立場の違いが、亀裂のきっかけであったとする見識もあります。

第二次世界大戦と分離独立

第二次世界大戦は世界中を疲弊させました。それは戦勝国であっても同じことです。イギリスも、戦前のような規模で植民地を運営するのが困難になってきました。インド帝国の解体は決定的となり、イギリス本国はその方法をもさくしていました。

イギリスの分割統治と分離独立

イギリスの直接統治は、インドの多文化・他宗教を逆手に取った狡猾なものでした。先述のように、ムガル帝国滅亡によって、それまで支配者であったムスリムは単なる少数派に転落しました。イギリスは多数派であるヒンドゥー教徒を優遇し、その力を統治に利用しようとしたのです。

例えば、1885年にヒンドゥー教徒主体のインド国民会議派の形成を促したりしていました。しかしインド内部で反英運動が起こってくると、その力をそぐために、今度は1905年にベンガル分割令を策定しました。ベンガル地方をヒンドゥー教の多い地域とムスリムの多い地域に分割しようとしたのです。ここから見えてくのはイギリスがヒンドゥー教徒とムスリムが手を組むことを極力避けていたということです。むしろ、両宗教の対立をあおることでイギリスに意識を向けさせないというものでした。

イギリスによってセットアップされた宗教・人種間の対立は時間が経つにつれて不可逆なものとなっていまいました。例えば1940年になると、イスラーム系の勢力である全インド・ムスリム連盟でイスラームとヒンドゥーの分離独立を強く主張するようになりました。第二次大戦後は、宗主国のイギリス自身も疲弊して影響力が低下していました。最早、イギリスには肥大しすぎた民族対立をコントロールできる手腕は残っていませんでした。

結果、1947年8月にインド帝国はインド連邦とパキスタンとして分離独立をすることになります。

分離独立後の混乱

インド・パキスタンは最終的に分離して独立したものの、その分離独立方法は「イスラームを信仰する地域はパキスタンに、ヒンドゥー教を信仰する地域はインド連邦へ」というものでした。パキスタンに関してはインド連邦を挟んで東西に領土を構えることとなりました。その結果、各地域の宗教・民族的マイノリティー達は他の地域へ移住を余儀なくされ、大規模な人口移動が起こりました。この人口移動は、飢饉や戦争を除いた場合の最大級の移民と言われており、社会に与えた混乱はすさまじいものでした。その結果、各地域で誘拐、女性への乱暴、虐殺が起こりました。各地域に狂信的な信者が一定数おり、対抗勢力への報復を常に考えている状況でした。血で血を洗う暴力構図がそこにはありました。
また、いくつかの地域はインド連邦とパキスタンのどちらへ帰属するか定まっていませんでした。代表的なものはカシミール地方です。カシミール地方にはムスリムが人口の大多数を占めるジャンムー・カシミール藩王国がありましたが、ヒンドゥーの藩王であるハリ・シングによって統治されていました。従って、簡単には帰属が決まらなかったのです。

このカシミール地方の帰属をめぐってインドとパキスタンは2度武力を交えることになります。そのほか、パキスタン内の独立運動であったバングラデシュ(東パキスタン)をめぐって1971年にも武力衝突をしています。

まとめ

インド・パキスタン分離独立はイギリスが彼らにとって都合よく統治をすすめようとした政策の末路です。

第三者によって蒔かれた種は、時間が経つにつれて制御不能になるまで拡大しました。そして、最終的にはインド・パキスタン同士の武力衝突や虐殺をも招く結果となってしまったのです。インド・パキスタンの歴史は西洋の植民地支配と民族主義が作り出した悲劇の歴史です。それに、この緊張は両国の核開発などで両国の緊張は今も続いているのです。

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