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豆知識

大津事件とはどんな事件?原因や内容・その後などわかりやすく解説!

2020年9月13日

2019年5月1日。天皇陛下と皇后陛下が即位されました。その際行われた儀式は平安時代から続いておりとても大変重要なものです。そんな儀式なので世界中の国のトップの方々が訪日します。

そのなかには、イギリスのチャールズ皇太子やデンマークのフレデリック皇太子など、皇太子の方々も訪日していらっしゃいました。このような国のトップが訪日することは今年だけではありません。

その一例として1891年に、ロシアの皇太子であるニコライ2世が訪日しました。しかしこの訪日では歴史の教科書で取り上げられるほどの大事件となりました。

今回はそんな大津事件の内容についてまたその原因やその後の影響について見ていきましょう!

大津事件とは

長崎訪問中のニコライ皇太子

大津事件とは、1891年5月11日、シベリア鉄道の起工式に参列する途中、親善のために訪日していたロシア皇太子ニコライ2世が、琵琶湖を見物して回った帰り道の途中で、滋賀県大津で警備の巡査津田三蔵によって切り付けられ、負傷した事件です。

まだ発展途上であった日本が北の大国ロシアに武力報復されかねない緊迫した状況下で、国の干渉をもろに受けながらも大審院も司法の独立を維持。かえって日本の三権分立がしっかり機能していることを示すことになった近代日本法学史上重要な事件となっています。

ちなみに日本政府でも外務大臣の青木周蔵と内務大臣の西郷従道(西郷隆盛の弟)が責任を負って辞職することにもつながります。

ニコライ皇太子の暗殺未遂

当時まだ小さかった日本は政府をあげてニコライ2世の訪日を接待し、公式の接待係には皇族である有栖川宮威仁親王海軍大佐を任命しました。
さらには、季節外れの五山送り火までも行われたといいます。次の訪問予定地である横浜、東京でも歓迎の準備が進んでいたそうです。まさに国をあげた一大行事だったのです。

津田はニコライ2世の訪日を、侵略のための調査だと思い込んでいたとのことです。事件の現場の名前をとって大津事件と呼ばれています。

ニコライ2世が負傷したとき、留学や軍事視察の経験があり、国際関係に大変詳しかった有栖川宮威仁親王は、すぐに大津事件を自分だけでは解決することができない重要な外交問題と判断しました。

東京の明治天皇のもとに電報を送り、ロシア側に誠意を見せるために天皇の緊急御幸を要請。明治天皇が直々に謝罪をしたのですが、ロシア本国の指示によりニコライ2世は東京訪問を中止、帰国することとなりました。

津田三蔵の犯行動機

津田がニコライ2世を切り付けた理由は、本人の証言によると事件以前からロシアの日本に関しての強硬な姿勢に不満を抱いていたからだそうです。

また、事件前、西南戦争で戦死した西郷隆盛が本当はロシアに逃亡し、ニコライ2世とともに日本に帰ってきたというデマが流れていました。

西南戦争で津田は勲章を授与されていたのですが、西郷が生きていたとなると津田の勲章がはく奪されてしまう可能性があり、それを危惧していたそうです。

大津事件のその後

ロシア皇太子を暗殺しかけたということは日本に強い衝撃を与え、ロシアの報復を恐れる『恐露病』という現象が日本中に渦巻くことになりました。

しかし、事件後の対応によって日本は思いがけない転機を迎えることとなります。

司法権の独立

当時の内閣は大津事件の判決について、ロシアとの外交関係を考慮し津田を死刑にするように司法に圧力をかけました。

しかし、ただし、この当時の大審院(現在の最高裁判所)のトップであった児島惟謙(こじまこれかた)は「法治国家として法の範囲で判決を出さなければならない」と言い、さらに「日本の刑法に外国皇族に関する規定はない」として死刑としたい政府の圧力に真っ向から反対しました。

こうして大審院では津田を殺人未遂として無期懲役の判決を下し司法権の独立を守りました。

この事件判決で司法の独立を達成してことにより、あいまいだった大日本帝国憲法の三権分立の意識が高まることになりました。

この判決は海外でも大きく取り上げられ、国際的に日本の司法権に対する信頼を高めました。正しい行いがいかに重要であるかわかりますね。

このことにより、進行中だった不平等条約改正へはずみがつくことになりました。

不平等条約の改正

大津事件が起こった時代は、旧幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の改正、とくに領事裁判権(治外法権)と関税自主権の回復が課題となっていました。
なぜなら、当時の政府は国家独立と富国強兵をして諸外国に負けない国をつくろうとしていたからです。

青木外相が辞任した後、陸奥宗光があとを継ぎます。日清戦争直前に領事裁判権の撤廃と関税率の引き上げ、また最恵国待遇を内容とする日英通商航海条約の調印に成功します。

これは、イギリスがロシアの南下政策に対抗するため結ぶこととなったのです。そしてロシアに対抗するため日露戦争が起こります。つまり日本はイギリスの頼みの綱のような存在になってしまっていたのです。

イギリスの他にも、欧米諸国とも改正条約が調印されます。残された関税自主権も陸奥のあとを継いだ小村寿太郎によって回復することになります。

こうして、開国以来半世紀を経て日本は対等な立場を得ることができました。

まとめ

ロシアとの関係が悪化するおそれがあり、天皇が謝罪する大事件でしたが、当時の大審院長は抵抗し司法権の独立を守りました。

大津事件は日本が司法的にちゃんとした国だとアピールする重要な転機だったのです。

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