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文化 日本史

誰にもわかるやさしい民俗学の話③ お祭りとはそもそも何なのか:『日本の祭』を読む

2020年7月12日

祭といえば、今日誰でも思い浮かべるのは、神輿(みこし)や山車(だし)の行列を中心に、その道々には幟(のぼり)や旗、提灯が並び、踊りや獅子舞などの様々なパフォーマンスが行われる賑やかで華やかな行事としての祭なのではないでしょうか。山車は、日本各地にあって、やま、やまぼこ、ひきやま(曳山)、だんじり、やたい、などと呼ばれ、2016年に「山・鉾・屋台行事」として、ユネスコの無形文化遺産にまで登録されたことは記憶に新しいところです。そうした所では、山車行列そのものが祭だと思われているでしょう。

しかし柳田国男は、そうしたものは祭そのものではなく、あえて言えば「祭礼」だというのです。「祭」と「祭礼」は違うのです。祭礼の神輿や山車の行列などは、おそらく平安時代の都(京都)で始まった「風流(ふりゅう)」と呼ばれるもので(神輿は祇園祭が最初であろうと柳田は言っています)、中世ないし近世以降に、主として都市(城下町や港町)でまず導入され、そこから農村にまでも伝わったものというのです。祭は本来、地域の人々が神をもてなすために行うものですが、見物人という多くの人々が発生し、見物人をもてなす「見られる祭」(祭礼)となって、今日、日本の祭が大きく変化しているのだということなのです。

祭とは何か

それでは、本当の祭とはどういうものなのでしょうか。前回の先祖の話で書いたように、昔の日本人の一日は、夕方(今日の午後6時頃)から始まります。祭の日も夕ご飯から次の朝ご飯までが最も重要な時間であり、神を迎えて夕朝二度のご飯(この場合ただ「ご飯」といわず神に供えるのは「御饌(みけ)」といいますが)を提供し、精進潔斎した参加者が清まった装束のままで、夜通し神に奉仕するのです。夕から朝までの一夜を神に奉仕してお籠り(参籠)することが、祭の最も大切な部分なのです。

今では宵祭(よいまつり)と本祭というように、2日がかりの祭と考えるようになっていますが、夜中の12時に日付が変更されるようになって、本来一つの祭が二つに分割され、本来重要な宵祭部分が前夜祭程度のものになってしまったのです。

柳田によれば、「マツル」という言葉は、「マツラウ」という語と同じで、お側にいて奉仕するという意味です。具体的には「御様子を伺い、何でも仰せごとがあれば皆承わり、思召(おぼしめ)しのままに勤仕(ごんし)しようとする態度」です。

したがって祭とは何か、という問いの答えは、酒食をもって神をもてなし、その間、精進潔斎した参加者一同が神の前に侍坐して夜通しその場に「籠る」ということであり、これが祭の本体なのです。現在も全国各地の小さなムラで、神輿も山車も、また獅子舞などのパフォーマンスも何もなく、ただただ神社に集まっているという祭りが多く見られます。これは祭ではないのではないか、と今の人は思うかもしれませんが、これこそ本来の祭の名残りを留めたものなのです。

ともあれ、その間に神に差し上げた飲食物を、末座でともどもにたまわります。これを「直会(なおらい)」といいます。これは、神への供物を下した後にべるものと誤解されているのですが、単なる「おさがり」ではなく、神への供物と同じもの(例えば同じ食材を同じ鍋釜で調理したもの)を神と人とが共に食べること(「相饗(アイアエ)」)なのです。神と人との関係を、同じ食物を食べることよってより強固にすることができるという、当時の人々の素朴な考え方に基づいたものなのです。今でも人びとは会食で飲食を共にすることで人間関係を密接にしようとしていますが、それと同様です。

神に供えた飲食物はいつまでたっても減らないから、今の人々は、神は食べないのではないかと思うでしょうが、柳田によれば、当時の人々は、神は飲食物の精だけを食べると信じていたのです。

祭の時期

 それでは祭はいつ行われたのでしょうか。弥生時代にまでたどれば、日本列島に住む人々の多くは、稲作農耕に関わっていました。当然に祭は、豊作を祈る春の農耕開始の時期と収穫に感謝する秋の農耕終了の時期に行われたものと言えます。暦がまだ普及しない時代、人々は月の満ち欠けをもって、季節を認識していました。後に導入された暦(旧暦)によれば、旧暦4月の満月の夜と旧暦10月の満月の夜、これが祭の日であったろうと、柳田は考えたのです。前回『先祖の話』で書いたように、日本の神とはご先祖の霊の集合体(=祖霊)であり、普段は遠くない山の頂に留まっているのですが、この日にその神を迎え、祭りを行ったのです。人々にとって、この旧暦4月の満月の夜こそが、実質的には一年の始まりと考えられていたと言えます。

しかし暦(旧暦)の導入とともに、年の初めは1月(正月)とされました。おそらくそうしたものをきっかけとして、家の祭が旧暦1月(正月)と7月(盆)となり、ムラの祭が旧暦4月(春祭)と10月(秋祭)になって分かれていったものと、柳田は考えたようです。家々の正月や盆の祭と、ムラムラの神社の祭とが、祖霊という神を迎えるという本来は一つのものだったのです。

ここまでくると、祭りは春と秋だけではなく、夏祭も全国各地で盛んに行われているではないか、と疑問に思われる人もいると思います。夏祭は、実は都のような人口密集地ができてから後に成立した本来は都市の祭なのです。そこでは疫病が発生するとたちどころに流行し広まります。現代でも新型コロナウィルスは都市に流行しても、農村地域にはほとんど及びません。水害が起これば都市では人命や住居が危機にさらされます。疫病や水害は特に夏に起こりやすく、こうした不安から水害や疫病を鎮めるために、祖霊よりも力がある特別な神に祈る夏祭が行われるようになったのです。旧暦の6月ごろですが、新暦では7月ないし8月になります。この文の冒頭にも触れましたが、京都の八坂神社(祭神は牛頭天王)の祇園祭などがその最初であり、全国各地に広まったと考えられます。夏祭にはとりわけ神輿や山車など華やかな催しが行われました。夏祭を盛んにし、多くの土地の祭を「祭礼」にしたのは、全体としては都市文化の力だったのです。

祭の場所

それでは祭はどこで行われたのでしょうか。そんなもの神社に決まっているじゃないかと言われるかもしれません。しかし神社がはじめからあったわけではありません。一般に言われるように、仏教が日本に伝来し、寺院という建築物が立てられるようになってから後、それをまねて神社という建築物が立てられるようになったのです。

柳田によれば、もともとは周囲に秀でた自然の木を選び、その木の下で祭が行われたのです。というのは神がその木に降りてくると信じられていたのです。その木は神が依りつく依代(よりしろ)であり神座なのです。諏訪神社の祭礼で鎌打神事といって、特に選ばれた木に鎌を打ち込むという、一見すればわけのわからない行事が、全国各地の諏訪神社で今も行われている所がありますが、それは、古い時代の神の依代とする木を決める時の作法で、鎌をもってこれぞと思う木に打ち込んで神木を決定したことの名残りなのです。

後に自然の木ではなく、特に清浄な地を選んでそこに柱(ないし棒)を立てて神の依代としました。伊勢神宮の心柱、諏訪神社の御柱(おんばしら)などはその名残です。現在でも各地の祭には必ず柱や棒を立てます。柱の数や大小などは多様に変化しました。例えば今の神主が御幣(ごへい)を振ってお祓いをしますが、その御幣も柱が極度に小型化したものであり、それもまた本来は神の依代なのです。

しかしその後、自然の木でも柱でもなく、常設の社殿を作って神が常にそこにいるものとされるようになったのです。これが今の神社であり、そこで祭が行われるようになりました。

祭の執行

神事の具体的内容を神態(かみわざ)といいます。最後にその神態を見てみましょう。祭とは神をもてなすことだと前に述べましたが、柳田によれば、その方式は、あたかも人間の最上級の賓客を迎えた場合と同様に最も手厚くもてなすことです。したがって食事の時には、かがり火を焚いてできるだけ周りを明るくし、最上級の酒と食物を提供しなければなりません。祭ではこの燈明(火焚き)と神供(ジンクと言い、神への供物のことです)が重要なのです。

さらに神という貴賓を歓待する大切な手段として、饗宴の余興が欠かせません。そのために神の前の庭で行われたのが、相撲であり、綱引であり、闘牛や闘鶏であり、なかでも弓と馬の競技なのです。その意味で、日本の運動競技のほとんど全部が祭の催しに始まっているのです。しかもそうした競技は、今後の吉凶を占う「年占」を伴いました。Aが勝てば豊作、Bが勝てば不作などというように。それが神の啓示とされたのです。

しかし人々はもっと直接に神の啓示を知ろうとしました。もちろん神は直接に言葉を発するわけではなく、ある特定の人に憑依(ひょうい)し、その人の口を借りて具体的な「託宣(たくせん)」をするのです。宗教学的にいえばシャーマンです。神が憑依するのは原則として女性です。あるいは少年に憑依することもあります。神が憑依した女性を「巫女(みこ)」といい、彼女の口を借りて神の言葉が伝えられるのです。今日、巫女さんは神社の付属物にすぎないと思われていますが、本来は最も重要な役目を果たしたのです。

巫女は神前で、神の来歴を語り神をたたえる「うた」や「かたりごと」(「たたえごと」)を繰り返しながら、神か人かの境の恍惚状況に入っていきます。恍惚状態になるには酒や楽器の効果もあったでしょう。中世以前の酒は今よりずっとまずく、嗜好物というよりも、祭のさいに共同で一種のトランス状態へ導くこと、つまり味よりも酔うことが目的であったと考えられます。巫女はそのうちに感極まって立ち上がり体を動かし始めます。これが舞であり、このワザによって神を招くのです。まさに神が憑依する状況が作り出されます。本来の「舞」とはこの神が憑依する状況を言うのであって、単なる「踊り」とは違うのです。今日の巫女さんの神前の舞は、元の意味を忘れた型だけのものになっているのです。ともあれこうして巫女は人々に神の言葉を述べるのです。人々は、この神の「託宣」を、今後のまた来るべき年の行いの指針にするのです。もちろんこうしたことはその後の祭では行われなくなっていきました。現在では、口寄せ、イタコ、瞽女(ごぜ)などの神社以外の活動として痕跡をとどめているにすぎません。

付け加えれば、舞の中での「かたりごと」(「たたえごと」)が、以前『桃太郎の誕生』で述べた日本の原初的な神話の諸部分であり、その後の日本の文学の初めでもあるのです。日本だけではなく世界中の芸術は、こうした宗教的な起源を持っているのです。

 以上、これが、柳田国男が見た日本の祭の本来の姿でした。

『日本の祭』初版、弘文堂、1942年、『柳田国男全集』13、ちくま文庫、1990年

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