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日本史

沖縄返還ってどんな出来事?返還までの経緯や今も残る問題についてわかりやすく解説!

今では日本で有数の観光地となっている沖縄。しかし、つい50年前までは沖縄県はアメリカであったということはご存じでしたでしょうか。

琉球処分から日本の領土の一部となっていた沖縄がどうしてアメリカのものになり、そしてどのようにして返還されたのか。

今回はそんな沖縄返還について、その歴史的背景、ついで返還運動の高まり、返還の実現と残された課題について説明を行います。

沖縄返還とは?

沖縄返還とは、1972年に行われた、アメリカ合衆国から日本国への沖縄地方の施政権の返還のことを指します。

「施政権」とは、「信託統治下において、立法・司法・行政の三件を行使する権利」を意味します。

法律を作る、裁判を行う、役所を指揮するという、三つの機能、統治権の全てを意味します。つまり、沖縄に対する統治権がアメリカ合衆国から日本国に返還されたのが沖縄返還です。

歴史的背景

沖縄戦とアメリカ軍の占領統治

そもそも、沖縄がアメリカの施政権下に入ったのは、直接的には「沖縄戦」の結果です。

太平洋戦争の末期、1945年3月にアメリカ軍が沖縄に上陸し、日本軍守備隊との間で3カ月にわたって凄惨な戦いが繰り広げられました。この戦いの結果、日本軍守備隊は事実上全滅します。

沖縄戦に勝利したアメリカは、沖縄を日本本土への進攻のための基地として活用し始めます。その過程で、沖縄にはアメリカ軍による「軍政」が敷かれることになりました。

アメリカの施政権時代のはじまり

8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏をします。この8月15日、アメリカ軍は沖縄各地から日本統治時代の県会議員や学校校長らをあつめて、アメリカ軍政府の諮問機関として「沖縄諮詢会」を設置します。

この沖縄諮詢会がやがて「沖縄民政府」に改編されて、アメリカ施政権下での住民の自治組織となります。沖縄民政府下で、いくつかの政党も設立され、本格的な沖縄統治が開始されることになります。

冷戦のはじまりと沖縄統治の本格化

その後、米ソ冷戦の本格化に伴い、沖縄は日本本土から次第に切り離されていきます。1951年に締結された「サンフランシスコ講和条約」によって、日本本土の連合国による統治は終結しました。

しかし、この「サンフランシスコ講和条約」によって、沖縄は正式にアメリカ合衆国の施政権下におかれてしまいます。

アメリカの施政権下で琉球政府が成立し、一応の住民自治は認められますが、最終的な決定権限は沖縄県民には与えられることはありませんでした。

返還運動の高まり

ニクソンと佐藤栄作首相

アメリカの統治の本格化と本土復帰運動

アメリカの施政権下で、沖縄はアメリカの冷戦戦略における重要な軍事拠点となります。1950年に勃発した「朝鮮戦争」、そして1960年代に本格化した「ベトナム戦争」では、沖縄はアメリカ軍の後方支援基地として、さらには戦略爆撃機の基地として、重要な役割を果たしました。

そうした背景のもと、沖縄では米軍兵士による様々な事件や事故が多発します。当時、沖縄の人々はアメリカ、日本のどちらの憲法のも適用されることがないという極めて不安定な立場にありました。さらに、アメリカ軍関係者が罪を犯したとしても、犯罪の捜査・逮捕・裁判はすべてアメリカ軍にゆだねられていました。そのため、殺人や強姦のような凶悪な犯罪であっても、無罪や、仮に罪に問われたとしても微罪として処理されるケースが後を絶ちませんでした。

また、「銃剣とブルドーザー」という言葉に象徴されるように、多くの土地が米軍に軍用地、演習用地などとして、強制的に接収されてしまいます。
こうした結果、沖縄の人々の間では、本土復帰を求めた抵抗運動がおこります(いわゆる島ぐるみ闘争)。1960年には「沖縄県祖国復帰協議会」が結成されることになりました。

とりわけ、1960年代後半にベトナム戦争が本格化すると、沖縄は戦略爆撃機の発着基地、つまり「最前線」となります。ベトナム反戦運動の高まりもあって、反米・反基地運動は高まりを見せます。

島ぐるみ闘争の高まりを象徴する事件が、1970年に発生したゴザ暴動です。アメリカ軍兵士の飲酒運転による交通事故を発端として、ゴザ市(現在の沖縄市)でアメリカ軍の車両や基地に対する焼き討ち事件が発生しました。

この事件自体は警察の出動によって一応の終息を見ますが、沖縄の人々のアメリカにする強い不満を象徴づける事件となりました。

日米政府間の沖縄返還交渉

1962年、当時のアメリカ大統領ケネディが「琉球は日本の一部」と明言をします。その後、アメリカ軍による反対など、多少の揺り戻しも起こりますが、沖縄の返還へ向けた動きが徐々に本格化していきます。

1965年、当時の首相、佐藤栄作が、現役の首相としては戦後はじめて沖縄を訪問します。佐藤首相はこの時、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わっていない」と演説します。

そして1969年11月、アメリカ大統領のリチャード・ニクソンとの間で、「佐藤・ニクソン共同声明」が発表されました。この宣言によって、「核抜き・本土並み」の条件で、1972年に沖縄の施政権を日本に返還することが約束されたわけです。

返還の実現と残された課題

初代沖縄県知事となった屋良朝苗

沖縄返還の実現

1972年5月15日、1945年以来27年間にわたったアメリカによる統治が終了し、施政権が日本へ返還されます。同日には「沖縄県庁」の看板が掲げられ、6月には初の現議会選挙が実施されるなど、沖縄県にははほかの46都道府県と同様の立法、司法、行政制度が急速に整えられていきます。
しかしその一方で、多くの住民が望んだアメリカ軍基地の即時返還は行われませんでした。

また、佐藤・ニクソン共同声明によって約束された「核抜き・本土並み」の条件は、現実には密約によって骨抜きにされていました。1972年、返還に際してアメリカ政府と日本政府の間で結ばれた密約では、有事の際にアメリカ軍による核兵器の持ち込みなどが合意されていたのです。

さらに、米軍が使用していた軍用地の返還についても、原状回復費用は日本政府側が肩代わりするという密約が取り交わされていました(現在でも、米軍基地跡地のダイオキシン汚染に対する補償問題として爪痕を残しています)。

残された課題1-基地問題

このようにして沖縄返還は実現されましたが、アメリカ軍基地をめぐる多くの問題は未解決のままとなっています。
沖縄返還の時点で、沖縄県内には全県土の14・8%、沖縄本島に限れば実に27・2%に及ぶアメリカ軍基地が存在していました。

2015年3月時点でも、アメリカ軍基地は沖縄県の件面積の約9.5%を占めています。返還の時点で多くの沖縄県民が望んだ「基地のない形での本土復帰」とは程遠い現実が今も続いています。

基地問題について特に近年問題となるのが、普天間基地移設問題です。宜野湾市の市街地に位置する普天間飛行場は、たびたび航空機やヘリコプターの墜落事故を起こし、その存在が危険視されていました。1997年には名護市辺野古への移設が決定されますが、海上ヘリポートの工法や、環境に与える影響などの問題が解決されず、さらに県外への移設を望む声の高まりもあり、現在も解決されないままとなっています。

残された課題2-日米地位協定

また、日米地位協定の存在によって、本土復帰後も、沖縄県民は様々な面で不平等な立場を強いられています。

沖縄返還後も、米軍兵士・関係者による犯罪は後を絶ちません。米軍関係者に対する裁判権は日本側にあるのですが、被疑者がアメリカ側に拘束をされた場合は、日本側が起訴するまで身柄をアメリカ側が拘束することとされていました(日米地位協定17条)。

そのため、平成7年に発生した婦女暴行未遂事件において、日本側の起訴前の身柄引き渡し要請をアメリカ側は拒否し、捜査に協力をしませんでした(沖縄米兵婦女暴行事件。最終的に被告の米兵3人には懲役6年~7年の実刑判決が下されました)。

まとめ

沖縄は日本の一部としての沖縄を求めて本土復帰運動を展開し沖縄返還までこぎつけました。

しかし、本土復帰した48年後の今も国土面積の0.6%に過ぎない沖縄県に、70%を超える米軍専用施設が集中しています。またほかの件と比べて圧倒的に賃金格差があることや、普天間基地問題をはじめとする問題も残っています。

屋良朝苗氏が「基地がある間は沖縄の復帰が完了されたとは言えない」といったようにまだ沖縄の問題は山積みとなっているのです。

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