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日本史

日清戦争はなぜ起きた?経緯やその後の日本の変化をわかりやすく解説!

日清戦争は、明治政府樹立以降初めて起きた外国との本格的な戦争です。

日本の近代化は、日清戦争をなくして語ることはできません。
今回は、日清戦争が起きた原因やその戦いの様子、またその後の日本の変化について解説します。

日清戦争とは?

日清戦争は、1894年から翌年にかけて、朝鮮半島をめぐって起きた日本と今の中国(清)との戦争です。
日本は当時巨大な軍事力を持つロシアが勢力を東アジアまで広げようとしており、日本はロシアの力が自国に及んでこないようにするため朝鮮半島への進出を考えていました。一方、当時の朝鮮は清の強い影響下にあり、内政にも干渉を続けていました。

簡潔にいいますと、列強であるロシアなどのアジア侵略に対抗して朝鮮半島を支配下におきたい日本と、朝鮮を自分たちの属国と考える清による“領土争い”、それが日清戦争の始まりだったわけです。

明治政府が目指した外交とは

鎖国が終了した日本における外交政策の変化

1853年にペリーが黒船で来航して以降、日本は急激な変化を遂げました。鎖国は解かれ、江戸幕府は大政奉還し、明治新政府が樹立されて日本は近代化の道を歩み始めます。しかし、江戸幕府が諸外国との間で結んだ条約は不平等なものが多く、明治政府はそれらを解消する必要がありました。1871(明治4)年からの岩倉使節団による欧米の視察や1875(明治8)年にロシアとの間で結んだ千島・樺太交換条約などにより、日本が近代的な独立国家で他の国と対等であることを世界に知らしめようとしていたのです。

当然ながら、東アジアにおいても日本をアピールする必要がありました。日本は1876年に朝鮮との間に結んだ日朝修好条規を結びましたが、朝鮮にとっては不利な条件が多い不平等条約でした。

明治政府による清や朝鮮との外交

1871(明治4)年に日本と中国、当時の清は、日清修好条規を結びました。これは、日本が初めて外国と結んだ対等条約です。ですが、1872(明治5)年からの琉球処分による琉球の日本への編入や1874(明治7)年の台湾出兵により、清との間でしこりが残ることになります。

朝鮮との国交問題は朝鮮が鎖国政策をとっていたことで難航し、強硬策をとってでも朝鮮を開国させようという、いわゆる征韓論が日本国内で沸き起こりました。とりわけ江戸幕府消滅以降に存在意義が薄れつつあった士族からは、朝鮮進出のチャンスとばかりに征韓論が支持されることになります。

しかし、まずは日本の制度改革や国内の発展を優先すべしという意見を持つグループと対立する事態となりました。そして、明治六年の政変と呼ばれる出来事により、西郷隆盛ら征韓論者が要職を辞して政府から離脱するという結果となったのです。

日本と清の対立から戦争に至るまで

ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)

朝鮮半島をめぐる日本と清の対立

1890年代になると、ロシアはシベリア鉄道の建設などで東アジアに影響を及ぼすようになりました。これに脅威を感じた清は、朝鮮を通じてそれを食い止めようという考えでした。当時の清は朝鮮の宗主国だったので、そう考えるのは当然のことです。

日本にも同様の思惑があり、大陸進出への足掛かりとロシアの脅威を防ぐためには朝鮮への影響力を高めておく必要がありました。また、その頃の日本は政党政治が芽生え始めた時期でした。板垣退助らによる自由党、大隈重信らによる立憲改進党などが生まれています。勢力を伸ばした政党による政府批判が高まると、批判をかわすためにも政府は大陸進出を急ぐ必要に迫られていたのです。

日本軍と清国軍による武力衝突までの経緯

1884(明治17)年、朝鮮国内で甲申政変と呼ばれるクーデター事件が起こります。クーデター側は日本との連携で政府の打倒を図りましたが、清国軍の介入によりわずか3日で鎮圧されました。日本と清との間で、両国の朝鮮からの撤退や以後朝鮮へ出兵する場合の相互通知の義務化などを定めた天津条約を結ぶこととなります。

それから10年後、1894(明治27)年に朝鮮で甲午農民戦争と呼ばれる内乱が起きました。東学という新宗教の信者が多かったことから東学党の乱とも言います。この暴動は朝鮮全土に波及し、当時の朝鮮政府は宗主国の清に制圧を要請しました。一方日本も、朝鮮に在留していた日本人の保護という名目で出兵を決め、6月に日本と清は天津条約に基づき相互に朝鮮への派兵を通知します。

朝鮮国内の反乱が制圧された後も、両国軍は撤退せず朝鮮に残りました。幾度も繰り返された和解交渉も不調に終わり、両軍の間で緊張が走ります。7月になると両国は交戦状態となり、日本は清に宣戦布告して日清戦争の火ぶたが切られました。

日清戦争の戦いの様子

日清戦争に臨んだ清の内情

当時の清は、欧米の列強国から「眠れる獅子」と恐れられていました。領土は広大で、潜在的な力量を比較するとそれも当然のことと言えます。日本と清との戦争では、清が有利と見られていました。しかし、実際に戦ってみると日本軍が各地で勝利を重ね、清国軍は不利な戦いが続きます。

当時の清は、西大后が治める時代でした。西大后といえば中国史上数少ない女性の権力者で、悪女伝説でも知られています。

この西太后の莫大な浪費により軍事費は削減され、軍備投資や軍隊の訓練が進まなかったことが清国軍を不利にした原因となったのも事実でした。

日本が日清戦争に勝利するまでの足取り

日本軍は、陸上では漢城(現ソウル)や平壌(ピョンヤン)を攻略して朝鮮を制圧すると、海上でも豊島沖海戦や黄海海戦に勝利して黄海や東シナ海を支配下に入れました。清には北洋艦隊という対日本を想定した西洋式の海軍が編制されていましたが、装備が不十分なのに加え艦隊の士気が上がらぬままで、敗走を繰り返すありさまでした。

制海権を完全に掌握した日本軍の攻撃は止まらず、北は満州から遼東半島、南は台湾や澎湖諸島までを攻略しました。19世紀はまだ戦車や装甲車の登場はなく、陸路の頼みの綱は鉄道という時代です。清は鉄道網が乏しく、海路を絶たれてしまっては致命的でした。開戦してから1年も経たずに、清は日本との講和会議に臨むことになります。

下関条約の締結

下関条約の締結の状況

戦意を失った清朝政府は休戦交渉に入り、李鴻章が下関会談で伊藤博文・陸奥宗光らとの交渉に応じました。
この講和会議の間に、日本は台湾併合の既成事実を作るため、台湾に付属する澎湖諸島(ほうこしょとう)を占領。
1895年4月、下関での講和会議の結果日本は

ポイント

・賠償金2億両

・遼東半島・台湾の日本統治・澎湖諸島の割譲

・朝鮮の独立の承認

の成果を得ました。

日清戦争終結後の日本と清

日清戦争終結後における日本の地位の変化

日清戦争に勝利したことにより、日本は東アジアで随一の近代国家として世界中で認められることとなりました。また、多額の賠償金は軍備拡張や金本位制の導入、官営八幡製鉄所の設立などに使われ、日本の近代化や軍事化に拍車がかかります。

しかし、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉により、日本に対して遼東半島を清に返還するよう要求しました。結局日本は遼東半島を手放すはめになります。その後遼東半島はロシアが清から租借することとなり、日本は「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん、復讐するため苦労に耐える意)を合言葉として怒りの矛先をロシアに向けました。

また、清は後退したことによって今度は日本とロシアの朝鮮の利権を巡る対立が新たに表面化することとなります。その対立は1895年、親ロシアの姿勢を強めた王妃閔妃が日本公使の送った暗殺団によって宮中で殺害されるという事件が発生するなど、このような強引な日本の介入はかえって反発を買い、ロシアの侵出が顕著となると、日本では反動的に「朝鮮は日本の生命線だ」という意識が強まって行きます。やがて日本はロシアの排除を目指して日露戦争へとつながっていくことになります。

清朝の崩壊

眠れる獅子として恐れられていた清は多額の賠償金の支払いで疲弊し、西洋列強国の進出を許すこととなります。三国干渉に関わったロシア、ドイツ、フランスは、それぞれ清における領土租借権や鉄道敷設権などを得て、さらには清の分割を目論みました。清の内部でも日本同様の近代化への動きがありましたが、思うように進みませんでした。

1900(明治33)年の義和団事件では、日本を含む連合軍が清を侵攻しました。清国内での動揺は広がり、人々は清王朝への不信感を募らせます。そしてそれは孫文らが立ち上がるきっかけとなり、1911年の辛亥革命により清は滅びることとなるのです。

まとめ

日本はこの日清戦争によって近代国家としての第一歩を歩みだしていくことになります。しかし日本の前途は多難でした。リャオトン半島の返還を機に日本国内ではロシアとの戦争を支持していく穂とが増えていくようになり、10年後には日露戦争が起こることになってしまうのです。

 

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