幕末、開国後の日本には開港地周辺などに外国人が居住するようになりました。そんな中で1862年(文久2)に起こった生麦事件は、日本とイギリスとの間の大きな政治問題となり、ひいては戦争にまでつながっていきます。
生麦事件はどのような経緯で起こり、またなぜ戦争にまでつながったのでしょうか。生麦事件が当時の日本に与えた影響について紹介していきましょう。
この記事の目次
生麦事件が起こった背景

生麦事件というのは生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区)で、その場を通りかかった薩摩藩の島津久光の行列にイギリス人が乱入し、藩士が殺傷した事件です。
このころ、日本では開港地を中心に外国人が居住するようになり、それとともにアメリカやイギリスなどからさまざまな要求が出されるようになっていました。要求に対する幕府の対応についての反発から、尊王攘夷の動きも激化していました。
島津久光とはどのような人物?

さて、島津久光という人物の名前は、幕末に興味がある方にはおなじみの名前ではないでしょうか。
特に西郷隆盛と対立した人物として記憶している方も多いでしょう。
島津久光は薩摩島津藩の11代藩主である島津斉彬の異母弟にあたります。斉彬の死後、島津藩は久光の長男である島津忠義が継いでおり、久光はその実父であるため「国父」として権力を持ちました。
つまり、久光自身は薩摩藩藩主であったわけではなく、官位なども受けていない立場ではありましたが、実質的に薩摩藩の実権を掌握していました。
島津久光の上洛
一方、当時の江戸幕府は、尊王攘夷運動の激化や次の将軍を巡る争いなどで弱体化しており、幕政改革が必要という意見が出ていました。この幕政改革を訴えていた人物の一人が久光の兄である斉彬でした。
斉彬の死後、久光はその兄の遺志を継ぐために自ら兵を率いて上洛し、朝廷からの勅使と共に改革をすすめることを考えます。そして1862年6月、勅使である大原重徳とともに江戸に入り、改革の要求を幕府に呑ませたのです(文久の改革)。
生麦事件が起こったのは、この帰途でのことでした。
生麦事件の被害者
一方、生麦事件の被害者となったのは4人のイギリス人です。横浜に住み商店に勤務をしていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜の生糸商人ウィリアム・マーシャル、そしてマーシャルのいとこで香港に在住していたボロデール夫人、そして上海に在住していたチャールズ・レノックス・リチャードソンでした。
イギリス人たちはいわゆる私的な旅行の最中であり、通訳などはついていませんでした。このことが事件に発展した要因の一つとなるのです。
生麦事件の内容
それでは、生麦事件の内容について、その経緯を確認していきましょう。
事件発生
1862年9月、島津久光は江戸で文久の改革を行った後、帰途につきます。ちょうど生麦村を通りかかったところ、馬に乗った4人のイギリス人と行き会います。彼らは行列の正面に入ってきたため、薩摩藩士たちは下馬し、道を譲るように合図をしました。
ところが、イギリス人たちには通訳がいなかったこともあり、その意味を誤解し、そのまま前進してしまいます。
周囲の様子でおかしいと感じた時にはすでに馬は久光の乗る駕籠の近くまで来ており、あわてて動こうとしたことがかえって行列を乱すことになりました。
それに対して藩士が切りかかり、死者を出す事件となったのです。
事件後の動き
事件後、イギリス人の中の一人であるボロデール夫人が居留地に戻り急を知らせたことからことが明るみになります。大名行列の藩士が斬りかかったということで、対応を誤ると戦争に結び付きかねないと、イギリス側も苦慮することになりました。
一方、久光の方は程ヶ谷宿にその日の宿を取ります。生麦村の役人からも神奈川奉行に事件が届け出されたことから、奉行は薩摩藩に対し事件の報告を求めましたが、薩摩藩からは「藩とは無関係である」という返答がなされただけでした。
生麦事件に対する対応
生麦事件が起こった最初の段階では、イギリス側も日本側もどのように対応すべきか苦慮することになります。
生麦事件に対するイギリス側の対応
生麦事件で自国民を殺傷されたイギリス側は対応に苦慮することになります。もちろん日本人により自国民が殺されたということで、報復すべきという意見があったことはありましたが、当時のイギリス公使館は報復をするのではなく、外交交渉により解決の道を探ろうとしました。
なぜかというと、もし戦争に打って出た場合、現実問題としてイギリス側は戦力が不足しており、全面戦争に発展した場合はイギリス側が不利になるという目算があったからです。
生麦事件に対する日本側の対応
一方、日本側からすれば、そもそも大名行列の目の前を横切るという行為そのものが「無作法」なものであるという理解がありました。「斬捨御免」であり、行列の前を横切ったほうが悪いというのが日本側の考え方だったからです。
しかし、幕府側としてはこの事件を黙殺するわけにはいきませんでした。実はこの事件の前に島津久光が幕府改革を行ったことで、久光及び薩摩藩に対して反感を持つ者も多くいました。その者からはこの事件を「幕府を困らせるためにわざと外国人を怒らせた」ものだと取られたためです。
一方薩摩藩は「足軽が外国人を斬りつけて逃げた」と答えることに終始し、薩摩藩とは関係ないという姿勢をとりつづけます。
生麦事件に対する周囲の見方
開国以来日本に居留するようになった外国人に対する反応もあり、住民たちからは久光の行為はむしろ歓迎されたと言われます。
また当時のアメリカなどのニュースでは大名行列を横切ったイギリス人に非があるという意見が多く見られたといいます。
実際この少し前に久光の行列に行き会ったアメリカ人商人は下馬し道を譲っており、トラブルにはなっていませんでした。
つまり、この事件は日本の大名行列に対するマナーを知らなかった外国人との間に起きた文化摩擦であり、知らなかったイギリス人側を批判する意見が多く見られたのです。
生麦事件から薩英戦争へ
事件から約半年が経った1863年。イギリス本国からこの事件の講和に関する訓令が届き、解決が図られることになります。
これでうまく講和を図ることができれば、事件はこれで終わったはずなのですが、そうはうまくいきませんでした。
日本側とイギリス側の対立
イギリス側はこの訓令により、幕府と薩摩藩それぞれに対して、講和の条件を突きつけます。まず幕府に対しては謝罪と賠償金10万ポンドを要求しました。イギリス、フランス、オランダ、アメリカの4国の艦隊が横浜に入港し圧力をかけたこともあり、紆余曲折があったものの最終的には幕府側はこの賠償金を支払いました。
一方薩摩藩に対しては、艦隊を直接薩摩に派遣し、犯人の処罰と賠償金2万5000ポンドを要求することになりました。
ところが薩摩藩はその要求に対して回答することはせず、会談をすることを主張します。ここに来てもなお、薩摩藩は自分たちに責任はないという姿勢を崩さず、もちろん犯人を出すこともしませんでした。
薩英戦争へ
業を煮やしたイギリスは、7月になり薩摩藩船を拿捕します。これをきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃し、薩英戦争が始まります。薩摩側は鹿児島の街の約1割が焼失するなどの大きな被害を受けますが、一方でイギリス艦隊にも大きな被害が出ました。
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10月、横浜のイギリス公使館で講和が結ばれました。薩摩藩は要求された賠償金を幕府から借りて支払いましたが、もう一つの要求である犯人の処罰に関しては、「逃亡中」ということで行われることはありませんでした。
生麦事件がもたらしたもの
このように、生麦事件は最終的に薩摩とイギリスの戦争という形で両者に大きな被害を出すことになりましたが、それと同時に日本の幕末の動きに大きな影響を与えることになります。
日本側の変化
この事件への対応で、イギリスからの要求をそのまま受け入れた幕府の対応は、幕府の権力の弱体化を進めることにつながりました。このことが後の倒幕につながっていくきっかけの一つになったと考えられます。
一方、薩摩藩はイギリスの軍事力を目の当たりにしたことで、欧米の文化や軍事力のレベルを体感することになります。
イギリスとの協調へ
同様にイギリスの側も、薩摩藩の軍事力を実際に体験することで、薩摩藩を高く評価するようになります。薩摩藩もイギリスを通じて欧米の近代技術を学ぶことを望み、両者の距離が接近することになりました。この動きが攘夷から倒幕へというその後の流れに大きく関係することになるのです。
まとめ
生麦事件は、それまで鎖国していた日本にやってきた外国人と日本人との間に起こった衝突でしたが、それが大きな政治問題に発展し、最終的には戦争にまでつながっていきます。
しかしこの衝突は、攘夷から倒幕へと大きく舵を切るきっかけとなりました。
これ以後、日本は倒幕、そして明治維新に向けて進んでいくこととなるのです。