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日本史

中先代の乱ってどんな反乱?原因やその後の影響について解説!

王朝の滅亡後に大様の子孫が反乱を起こす。こういった事例は世界中の歴史から見てもたくさんの事例があります。にもちろん日本でも滅亡した勢力を再興するために一世一代の大勝負をする人がいました。

今回は幕府再興をもくろんでそれが日本を分裂するきっかけとなる中先代の乱についてみていきたいと思います。

中先代の乱とは?

現代の鎌倉

中先代の乱は、1335年7月に北条高時の息子で逃亡中であった時行が信濃国の諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府の再興を目指した反乱を指します。
名前の由来は鎌倉幕府と室町幕府との間にあることからなつけられました。

その他にも鎌倉支配が20日ぐらいしか続かなかったことから、廿日先代の異名もあるのですが明智光秀(11日)よりは持ったのですから大したもんです。

中先代の乱の流れ

後醍醐天皇

1333年に新田義貞が鎌倉を攻め北条高時が家臣とともに東勝寺で自害すると全国では後醍醐天皇による建武の新政が行われることになります。
しかしあまりにハッスルしすぎたため後醍醐天皇がすべての最終チェックをすることになったことで政治は大混乱。不安定な情勢となり北条一族の残党を名乗る人たちがしょっちゅう反乱を起こすことになります。

1335年には鎌倉時代の時に朝廷と幕府のパイプ役を担う関東申次を務め、北条よりであった西園寺公宗という公家が北条高時の弟を擁立し政権転覆計画がばれたことで北条残党の反乱の機運がピークとなります。

とくに北条氏が守護を務めていたゆかりの地である信濃国では北条市の残党が多数潜伏しており、北条時行もそんな中の一人でした。

挙兵から鎌倉陥落

信濃に潜伏していた時行は北条氏の家臣であった諏訪頼重らに擁立されて挙兵。目的地は北条氏の元本拠地で関東地方の最重要スポットである鎌倉です。一方で北陸では名越時兼という北条氏の親戚の人が挙兵します。

朝廷からしたらなんとかして北条の軍勢を抑えなければなりませんが、朝廷は北条の軍勢が一気に京都を攻めていくと予想しており、さらには当初は反乱軍が倒した高時の息子である時行を擁しているとは知りませんでした。

そのため、鎌倉将軍府という関東地方の統治機関への連絡が来ておらず、油断しきっていたのです。挙兵した北条時行は北陸の北条氏残党とも合流し、5万の兵力で信濃国から鎌倉めがけて進軍してきます。

当時、鎌倉を守っていたのは足利尊氏の弟の足利直義でしたが、何も聞かされておらずに5万の軍勢を倒すことはできません。
結局朝廷側は井出の沢と呼ばれる地域で戦うのですがあっさり敗北。京都方面に逃れることになります。

しかし、逃亡対策はちゃんとしており、反乱軍に担ぎ出さない様に後醍醐天皇と仲が悪かった息子で鎌倉で閉じ込められていた大塔宮護良親王が暗殺されることになりました。
こうしているうちにも軍勢は鎌倉に迫り、ついに1335年7月に北条時行は幕府滅亡以来2年ぶりに鎌倉を奪還を果たすことになります。

足利尊氏の謀反

足利尊氏

足利直義が鎌倉から落ち延びたことはすぐさま朝廷の耳にも届きます。
当時は後醍醐天皇の家臣であった足利尊氏は直義の援護にまわり鎌倉を攻め落とそうとします。

しかし、後醍醐天皇の許可第一のこの時代では軍勢を動かすのも後醍醐天皇の許可が必要となっており、尊氏もそれに従って後醍醐天皇に征夷大将軍を賜って鎌倉奪還を果たそうとしました。

しかしこれを後醍醐天皇は拒否。というのも征夷大将軍は武家のリーダーがなるという権威性が備わっておりさらにはそんな人が関東にいったらそこで別の政治機関を作ると思われていたのです。

後醍醐天皇は頼朝の二の舞になることを避けてなんとかして武士が独自の権力を確立することを避けたかったというわけなんですね。
でも弟を助けたい一心だった足利尊氏は後醍醐天皇の制止を無視して軍勢を率いて関東に下向。後醍醐天皇はやむなく尊氏に征東将軍の称号を与えしぶしぶ許可を出しました。

しかし、このことがのちに軋轢を生むことになります。

中先代の乱の経過

足利尊氏が加勢し大軍となって鎌倉へ向かっていることを知った北条時行は尊氏を倒そうとしますが鎌倉を出発しようとした夜に鎌倉は強風に見舞われ延期を決めることに。

今度は逆転して北条軍が出遅れることになります。両軍は静岡県掛川市あたりで激突しますが、朝廷の官軍パワーや尊氏の活躍によって北条側は劣勢に。
これに追い打ちをかけるようにバサラ大名で有名な佐々木道誉が北条軍をコテンパンにして退却。鎌倉は尊氏によって奪還され中先代の乱は鎮圧されることになりました。

中先代の乱と北条時行

鎌倉から落ち延びた北条時行は行方をくらまして逃亡。

擁立した諏訪頼重は主君の北条時行を逃すために自害。そのうえ全ての顔が剥ぎ取り敵に見られても誰が命を落としたのかをわからなくして、時行がここで自害したと偽装工作をしたわけです。

その後は南北朝の時代になると時行は南朝側の北畠顕家に従軍して足利と戦っていくことになります。最期は鎌倉でとらえられ処刑されたとされていますが、実際のことなまだよくわかっていません。

中先代の乱の影響

中先代の乱は旧勢力による反乱で歴史上ではよくあることなんですが、この中先代の乱はその後の日本を大きく変えることになります。
中先代の乱が鎮圧されると、日本の戦争ではおなじみの恩賞タイムになるのですが、建武の新政では恩賞は全て天皇が決めるものとなっていました。
要するにこの恩賞タイムは尊氏の勝手な判断であり、後醍醐天皇の命令違反ともなります。

後醍醐天皇は尊氏の勝手な行動に警戒心を抱き始め、尊氏に対して京都に戻ってこいと命令を出しました。
特に反感も持っていなかった尊氏は潔く帰ろうとしますが、この頃後醍醐天皇に不満を抱いていた武士たちは尊氏を新しいリーダーにしようと考えていました。
よして直義の必死の説得もあり、尊氏は考えを決めて後醍醐天皇の命令に従わないと決心。
尊氏は鎌倉に本拠地を固めて屋敷も建造。要するに後醍醐天皇との対決姿勢を見せたのです。

これに大激怒した後醍醐天皇は尊氏追討を決定。足利尊氏を天皇に逆らう逆賊として認定して新田義貞や楠木正成などに足利尊氏の討伐を命令します。

まとめ

中先代の乱は鎌倉幕府の残党が鎌倉を攻め落としたという本当に小さな内容でしたが、それをめぐる争いでここから南北朝の動乱へと突き進めていくことになります。

中先代の乱という名前の様にこの反乱を機に時代は建武の新政から南北朝の動乱に突入していき、日本の歴史は大きく動き始めることになるのです。

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