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クルド人問題ってどんな問題?歴史や現在についてわかりやすく解説!!

読者の方々が「クルド人」と聞いて最初に思い浮かべるのは、おそらく「トルコ政府に抑圧された人々」であったり「テロリストを多く輩出している」といったような、クルド人に対する負のイメージが多いのではないでしょうか。
"少数民族"でありながら、世界で生活するクルド人の人口は何と3,000万人以上にも上ると言われています。国を持たない彼らはトルコ、イラン、イラク、シリア、他の中東諸国などにまたがって生活していると言われています。また、日本にも主に埼玉県の南部で2,000人前後のクルド人難民が生活していると言われています。
今回の記事では、クルド人の歴史を振り返り、現代に生きる彼らがなぜ迫害や差別などの憂き目に遭っているのかを考察していきます。

クルド人って一体何者?

クルド人の旗

そもそも「クルド人」とは一体何物なのでしょうか?冒頭にも述べた通り、クルド人は国を持たない民族としては世界最大の人口を誇っています(3,000~4,500万人程度と言われている)。居住地域は主にトルコの南東部、イランの北西部、イラクの北部、シリアの北東部の中東地域で農業や牧畜などをして生活しています。

クルド人の起源はアッシリア人ともアルメニア人とも言われ、宗教的には寛容(強制されて改宗することは無い)であると言われています。また、彼らの話す言語はクルド語で、ヨーロッパ語族イラン語派に属する言語です。この語族にはインドの公用語の一つであるヒンディー語、イランの公用語であるペルシャ語があります。

オスマン帝国による保護と平和

クルド人は中世から近世にかけて中東、アフリカ、南東ヨーロッパにかけて繁栄したオスマン帝国(1299-1922)に居住区を持っていました。つまり、クルド人たちは広大なオスマン帝国内で、現在で言う所のアルメニア、モロッコ、ギリシャ、シリア、イラクなどの様々な国々にまたがって暮らしていた訳です。

オスマン帝国は領土を拡大していく上でイスラム教徒以外の人々をミッレト制(税金を払うことによる主教・財産・自由の保障)によって保護していきました。

そのため、ミッレト制の対象となったユダヤ教徒、ギリシャ正教徒、アルメニア正教徒たちとイスラム教徒が平和的に共存していました。また、公には民族による差別なども無く、遊牧民族として戦闘に秀でたクルド人は軍隊の中で騎馬隊などで活躍し、帝国軍隊の中で重要な地位を築くこともしばしばでした。

第一次世界大戦の結果

こうした状況は第一次世界大戦でオスマン帝国がフランス、イギリス、ロシアの連合軍に敗れたことで一変しました。

大戦中に連合国側で秘密裏に結ばれたサイクス・ピコ条約(1916)という秘密条約によって大戦後の領土がどの国に割譲されるのかを勝手に決定していました。また、イギリスはこの秘密協定の他に、ユダヤ人にパレスチナの居住地を作ることを明記したバルフォア宣言(1917)、アラブ諸国に国家の独立を約束したフサイン・マクホマン協定というお互いに矛盾する約束したことで、敗戦後に当該地域においての土地の分割について混乱をもたらしました。

こうした一連の矛盾する協定は旧オスマン帝国領内の国々における民族対立・領土争いを直接的に作り上げたといっても過言ではありません。また、これらの協定とその後の連合軍側の対応が現在のイスラム国に代表されるようなイスラム過激派組織が彼らの残虐行為を自己正当化する一つの原因となっているとも言われているのです。

叶いかけたクルド人独立への道

クルド人の居住地区

オスマン帝国の敗北後、帝国と連合軍の間で結ばれたセーヴル条約(1920)によってクルディスタン王国の独立が認められ、クルド人としては歴史上初めて独立が認められましたが、革命によってオスマン帝国を倒したトルコ共和国がこの決定に反発し、新たに結ばれたローザンヌ条約(1923)によって独立が否認されてしまいました。

その後、1946年にソ連によって独立が認められることになりますが、産油国でもあったクルディスタン地域にアメリカやイギリスなどが干渉し、最終的にソ連が撤退したために独立国家はまたしても崩壊してしまいました。

近年のクルド人独立に向けた動き

独立の動きはトルコだけではなく、イラク北部でも活発でした。

特に1980年代には独立運動が活発になりますが、イラクのサダム=フセイン政権はその動きを厳しく弾圧しました。最近の動きで言うと、2017年にイラクのクルド人自治区で住民投票が行われ、住民の大半が独立を支持しましたが、トルコ・イラン・イラクはこの投票を認めませんでした。

民主化運動「アラブの春」

2011年に中東地域を中心に広がった民主化運動である通称「アラブの春」は、中東諸国での民主化の動きを加速させました。「アラブの春」の結果として、民主化に成功した国もあれば、失敗し、内戦に突入したり、情勢不安に陥ってしまった国もあります。その中でも誰もが一度は耳にしたことがあるであろうシリア内戦(2011~)は、この「アラブの春」による民主化運動が内戦の引き金となりました。

シリア内戦で活躍したクルド人

このシリア内戦は独裁政権VS民主主義政権という構図の基、始まった内戦でした。しかし、時が経つにつれて独裁政権であるアサド政権と反政府軍との戦いが徐々にイスラム過激派組織、政府軍、クルド人武装組織(シリア民主軍)の三つ巴での戦いの様相を呈するようになりました。

この三つの組織には各国の政府が武器や金銭の援助をしているとされ、クルド人武装組織(シリア民主軍)にはアメリカ・トルコ、政府軍にはロシアが介入し、紛争はますます泥沼化が進んでいると言えます。イスラム過激派の抵抗が収まってきた2019年にはアメリカがシリア内戦から撤退を表明し、内戦が沈静化したかに思われました。

トルコ政府とクルド人民兵組織との対立

しかし、アメリカが撤退するとすぐさまトルコ政府はトルコ国内のクルド人民兵組織である「人民防衛部隊」の拠点を攻撃し、この組織を後ろ盾にしていた、シリア内戦でイスラム過激派と戦っている「シリア民主軍」を「シリアの国境から30㎞地点まで撤退させた」というニュースが届きました。イスラム過激派との戦いでは協力していたトルコ政府が「人民防衛部隊」を攻撃した理由は不明ですが、トルコ政府は兼ねてからトルコ国内のクルド人居住区が「テロリストの温床である」として幾度となく弾圧しています。トルコ政府としては、「アメリカという強い後ろ盾を失った今こそが彼らを一掃するチャンスだ」とこのような作戦に及んだのでしょう。

まとめ

「クルド人問題」とは政治に翻弄された民族の歴史だということが出来ます。

第一次世界大戦の時に意図的に決められた国境戦や何の根拠も無い協定などによって、彼らの生活は脅かされ続けています。私たち日本人は島国なので、他国と領土問題については考えづらいと思います。しかし、その土地の文化や習俗を継承しているだけなのに、差別され、住んでいる場所を追われたりしたら。誰にでも自由に生活する権利があるはずなのに、その権利を行使できない人々もこの世界には沢山いるのです。

この事実に直面した時にこの世界が民族や宗教などではなく、一人の「人間」として他人と価値観を共有できたらどれだけ幸せなのだろうと考えてやみません。

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