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政治用語

革新自治体って何なの?生まれた経緯から現在の状況についてわかりやすく解説!

2020年6月14日

「革新自治体」をご存じですか?名前を聞いてもピンと来ない方が多いのではないでしょうか?革新というと過激なイメージを持ってしまうかもしれませんね。革新自治体とは何なのか、なぜ生まれたのか、現在はどうなっているのか詳しく解説します。

革新自治体とは?

革新自治体を説明する前に「保守」と「革新」について話しておきます。

政治の政党で「保守政党」とか「革新政党」というのを目にしたり聞いたりしたことはありませんか?

現在の資本主義体制を維持することを目的とした政党を保守政党といい、自由民主党がその代表政党になります。自由民主党と同じ保守的な政党を含め保守勢力と言っています。

これに対し、現在の資本主義体制に変革を加え、社会主義的な体制を目指す政党を革新政党といい、社会民主党や日本共産党がその代表政党です。同じ理念を持つ政党を含め保守勢力に対抗する革新勢力と言っています。

革新自治体とは、社会民主党や日本共産党などの革新勢力が知事や市長などの首長となった地方自治体のことを言います。政党の様に統一した理念や政策を持っているわけではなく、政策はそれぞれの首長に任されているのが特徴です。

革新自治体はなぜ生まれたのか?

戦前の大日本帝国下では自治体の首長は内務省による任命か議会選挙によって決められていたため、革新派の首長が誕生する余地はありませんでした。戦後になると社会党や共産党が躍進し、社会党系の県知事が次々と誕生していきます。

戦後制定された日本国憲法の第9条では戦力の不保持を規定しました。戦争に敗れた日本は武装解除を迫られて軍を無くしたのです。ところが朝鮮戦争が始まると朝鮮半島に送られる駐留米軍の穴埋めとして連合国軍総司令部の要求で警察予備隊を作ります。

警察予備隊に強力な武器を持たせ、のちに保安隊と名を改め、1954年に軍隊でも警察でもない国防を任務とする現在の自衛隊という組織ができます。

すると日本国憲法を改正し、自衛軍備の保持や従来の体制復古を目指す政党が表れます。

改憲を目指す勢力を保守勢力と呼ぶようになりこれに対して憲法改正反対・非武装中立の立場を目指す勢力を革新勢力と呼びました。

1955年の総選挙で日本社会党が憲法改正の発議を阻止するのに必要な3分の1の議席を獲得。これに対し、憲法改正を目指す自由党と日本民主党が合併して現在の自由民主党を結成。約3分の2の議席を獲得し、保守一党優位の政治体制がスタートします。これを55年体制と呼んでいます。

この55年体制から保守勢力と革新勢力の対立が浮き彫りになっていき、革新自治体が誕生していくのです。

高度経済成長が革新自治体を増やした!

高度経済成長の進展によって、東京や大阪といった都市に人々が移住します。人口増加に伴い交通や通信、住宅、学校、病院などのインフラが不十分になっていきます。また工業の発展が環境破壊を招き、公害問題が深刻化になりました。

保守勢力の自由民主党は経済成長を優先するあまり、公害対策やインフラ整備を軽視します。保守首長も中央政党に準じた政策を遂行しているため、革新首長は公害対策や福祉の充実などに力を入れるようになり、保守勢力との政策の違いを訴え、有権者の支持を集めるようになります。

もうひとつの要因として支持基盤の変化があります。自由民主党も日本社会党も労働者、農民、商工業者といった共同体が支持基盤でした。高度経済成長により、人々が移住することから共同体が縮小しはじめ、一方では共同体に属さない人々が増えていきました。

共同体に属さない人々の指示を集めたのが共産党と公明党です。この2つの政党が首長選挙に候補者を擁立することで革新派の首長が増えていったのです。

美濃部都政が革新自治体のシンボル!

1967年の東京都知事選で美濃部亮吉が当選しました。美濃部亮吉は戦前に日本で問題となった天皇機関説を唱えた美濃部達吉の息子さん。そのため知名度は高く、初登庁時には3000人の市民が出迎えたそうです。とくに女性から人気があり、都民との対話集会の会場には美濃部亮吉を待つ女性が殺到したと言われています。。

美濃部亮吉は厳しい基準の公害規制条例を制定しました。これは国に先駆けて実施しており、国の政策より充実した老人や障害者に対する福祉政策を実施していきます。ほかにも無許可保育所の設置や離島対策も行いました。

この美濃部亮吉の政策がやがて国を動かすことになります。地方政治が中央政治を動かすという革新自治体のシンボル的存在となりました。

美濃部亮吉は国の方針に逆らう政策を行ってきました。国と対立する構図をあえて作ることで、国と渡り合う実行力があるということを世間に見せつけ、支持率を上げる目的があったようです。改革するというポーズをとり、有権者の支持を集める政治スタイルの先駆者でもあったようです。

美濃部亮吉は1971年の都知事選に出馬し圧勝します。この年の統一地方選挙では大阪府を含む7知事が革新派となりました。1975年には東京・大阪・京都など9知事が革新派となっています。

革新系市長から成る全国革新市長会の会員数も増加し、1960年後半から1970年代は革新自治体の時代と言われました。

革新自治体の時代はなぜ終わったのか?

1976年の衆議院議員総選挙で公明党と民社党が議席を伸ばし、社会党は伸び悩みます。

首長選挙で革新政党が勝利するには特に公明党の協力が不可欠でした。しかし公明党との連携方法を明確に打ち出すことが出来なかったのです。

また公明党と共産党の支持基盤は都市部の新住民であり重なっていました。そのため関係は良くなく、公明党が革新政党と協力関係を構築するのは困難だったのです。

社会党の中にも共産党と合わない派閥や民社党と合わない派閥があり革新政党の協力関係を築くのが難しい状況でした。さらに社会党は党員を減らし、得票のほとんどが浮動票や労働組合票のため、社会党が他党の候補者への呼びかけをしても成果が出ないという状態だったのです。

その結果、革新政党と公明党が各選挙区で票を奪い合い、自由民主党が勝利するという事態が続出しました。

革新自治体のシンボルでもあった美濃部都政は1979年の統一地方選で保守政党から立候補した鈴木俊一に敗れて終わりを迎えます。また大阪府知事選でも革新派の候補者が敗れ革新府政が終わっていきます。

この統一地方選をもって革新自治体の時代は終わっていくのです。

革新自治体が日本社会に与えた影響とは?

先進国に追いつくために政権与党であった自由民主党は経済成長政策を推し進めます。

そのため、環境政策や社会福祉政策が軽視されがちだったのです。その環境政策と社会福祉政策に取り組んだのが革新自治体です。

革新自治体の政策はやがて地方自治体や国の政策に引き継がれていきます。そういう状態を作ったことは革新自治体が社会に与えた影響と言えるでしょう。

革新首長が退陣した後、東国原英男宮崎県知事や橋本徹大阪府知事、そして最近では小池百合子東京都知事といった個性的なリーダーが地方政治に登場しました。あえて敵を作り自らの指導力を誇示する姿勢は革新自治体のスタイルそのものです。

選挙の投票率は年々下がり、政治への関心が低下傾向にあります。指導力のリーダーを待ち望むのではなく、どんな政治を望んでいるのか、そういう政治を実現するために自分は何をすべきなのかを国民ひとりひとりが考える必要があるのではないでしょうか。

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