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世界史

イタリアってどうやって成立したの?イタリア統一運動の流れについてわかりやすく解説!

ファッションや芸術の都として、人気の高い観光地として有名なイタリアですが、19世紀初期までは様々な国家が領土を所有する複雑な状況におかれる国でした。
その後、イタリア統一運動により国家が統一され現在に至りますが、どのような流れで統一されたのか分かりやすく解説していきます。

イタリア統一運動とは

イタリア統一運動(リソルジメント)とは、サルデーニャ王国や両シチリア王国、教皇領、などの様々な国家が並立していた19世紀のイタリアにおいて、国家を統一しようとする人民の声の高まりにより起こったイタリア統一を目的とした運動のことです。

この運動は断続的に続けられていき、サルデーニャ王国を中心として1861年にイタリア王国が建国。最終的には南イタリアの両シチリア王国を征服して1870年にローマなどの教皇領の残りを併合。イタリア半島は一応統一されることになるのです。

イタリア統一前の状況ポイント

1843年時点のイタリア。Wikipediaより引用

まず確認したい点は、当時のイタリアは以下の7つ地域に分かれていたことです。

ポイント

サルデーニャ王国
・ロンバルディア
・ヴェネチア
・南チロル
・中部イタリア
教皇領
両シチリア王国

このように地域が7つありました。

このうち、ロンバルディア、ヴェネチア、南チロルがオーストリア領中部イタリア、教皇領がフランス軍の駐屯地でした。
このオーストリア領、フランス軍の駐屯地に、サルデーニャ王国、両シチリア王国を加えた4つの勢力が存在していました。
このように様々な勢力がひしめき合うなかで、統一を目指すことがいかに困難なことであるかという事は、皆さんの想像に難くないと思います。とにかく、複雑な状況であったことを覚えて頂ければOKです。

統一の開始から成立まで

1861年のカミッロ・カヴール

イタリアの統一を目指したのはサルデーニャ王国でした。国王のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と、国王を支えた当時首相のカヴールが中心となり、統一運動を開始します。

カヴールは、超現実主義者で冷静な人物で、様々な勢力がひしめくなかでイタリアを統一することの難しさを熟知していました。そこで彼は巧みな外交を駆使し、イタリア統一を進めていきました。

イタリア統一はサルデーニャ王国が中心となり、他の勢力は敵という構図で進んでいきます。

いよいよイタリア統一運動開始です

まず始めに、サルデーニャ王国はクリミア戦争に参戦します。この戦争は、ロシアとオスマン帝国の争いに、イギリスとフランスがトルコ支援で入っていった戦いです。この戦争はサルデーニャ帝国にとって関係ないように見えると思います。実際、この戦争に参加したところでイタリアの領土は手に入りません。戦争に参加することによる直接的なメリットは何一つありません。

ではなぜ、サルデーニャがクリミア戦争に参加したのかというと、ヨーロッパで起きた大きな戦争に参加することでサルデーニャの顔を売ろうという、国際的地位の向上が目的でした。

ちなみに、その際に首相カヴールはフランスのナポレオン三世に接近して、イタリア統一の支援を要請したという話もあります。そしてサルデーニャは、クリミア戦争を足掛かりにイタリア統一戦争へと進んでいきます。イタリア統一戦争で戦う相手は、地理的に近いロンバルディアなどの都市を領土に持つオーストリアでした。

この戦争に無事勝利したサルデーニャは、ロンバルディアを獲得します。

この結果を受け、中部イタリアの人々の中でサルデーニャとの併合を望む声が次第に強まりまっていきます。しかし、パート2で確認した通り中部イタリアにはフランス軍が駐屯していました。勝手に併合することはできません。

そこでカヴールはフランスのナポレオン三世に「中部イタリアを併合する代わりに、フランス人が多く住む土地である、サヴォイアとニースを譲りますよ」と交渉した結果、フランスは中部イタリアの併合を認めました。

ガリバルディの両シチリア征服

ジュゼッペ・ガリバルディ

イタリア統一戦争での勝利、中部イタリアの併合により、サルデーニャ王国は順調に領土を拡大していきました。そして更にサルデーニャ王国にとってラッキーなことが起こりました。

ガリバルディという、千人隊と呼ばれる部隊を率いる指導者がイタリア統一を支援し、両シチリア王国を征服した後にサルデーニャ王国にその領土を譲りました。
したがって、サルデーニャ王国は両シチリアと戦うことなく領土を手にしました。この時点でイタリアの国土の半分以上をサルデーニャ王国が手に入れた状態となります。そしてついに1861年、イタリア王国が成立しました。
しかしちょうどこの年、イタリア統一を中心的に進めた功労者である首相カヴールが死去してしまいます。これまでの順調なイタリア統一の成果は、カヴールの積極的で的確な外交によるものでした。そこで、圧倒的な外交力を失ったサルデーニャは作戦を変えます。
大きな戦争に便乗し、どさくさに紛れるような形でイタリア人の住む地域を奪い取る手法に転換します。
例えば

ポイント

・プロイセンとオーストリアの戦争に便乗し、ヴェネチアを併合
・プロイセンとフランスの戦争に便乗して教皇領を占領


というように新たな手法で、イタリア人の住む領土をイタリア王国成立後も、更に拡大していきました。

イタリア統一後について

こうして悲願のイタリア半島統一を果たすことになったイタリア王国ですが、統一しても2つの問題をイタリアは抱え続けることになります。

未回収のイタリア問題

イタリア統一運動は順調に進みましたが、成立後に問題がありました。実は、イタリア人が住むすべての地域を回収できたわけではありませんでした。
イタリアが多く住むにも関わらず、回収できなかった地域を未回収のイタリアといいます。具体的に言えば、トリエステと南チロルが挙げられます。
イタリアが多く住む地域ですが、オーストリア領土のまま存続してしまいました。この未回収のイタリアを巡り、イタリアとオーストリアの関係がその後悪化していきます。最終的に未回収のイタリアがイタリア王国に統合されたのは第一次世界大戦後のことでした。

ローマ問題

イタリアが統一したことを受けてまだ不服と思っていた人がいました。ローマ教皇です。

教皇領としてイタリア中部を支配していた教皇ですが、イタリア王国が教皇領を支配したことでバチカンとイタリアの仲は修復できないものとなってしまいました。

以来、ローマ教皇はイタリア政府との関係を断絶して自らを「ローマの囚人」となぞられていくことになります。

イタリアとバチカンの関係が修復されるようになるのは1929年のラテラノ条約締結を待たなくてはなりません。

まとめ

今でこそ一つの国となっているイタリアですが、その統一の背景にはイタリアの人々の統一の悲願があったからだからこそ成し遂げられた問題だと思います。これから先はフランスやイギリスを追うように近代化と植民地支配を進めていくことになります。

こうして統一したイタリアは第一次世界大戦と第二次世界大戦に挑んでいくことになるのです。

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