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世界史

理想の生き方を求めて立ち上がった民衆革命!イラン革命について解説!

2020年5月23日

2020年、史上初の石油暴落が起こりました。感染症が原因で世界的に経済が傾き、過剰供給が起こったからです。

今回焦点を当てるのは、石油の原産国の一つであるイラン・イスラーム共和国。

なぜ革命は起きたのでしょうか?そして革命はどんな影響を与えたのでしょうか?今回はそんなイラン革命について解説していきたいと思います。

イラン革命はなぜ起こったのか?

イラン革命が起こった最大の理由はこの当時イランを支配していたパフラヴィー朝の存在がありました。イランは豊富な石油資源を世界各国から狙われていたのです。

イギリスの介入

石油が豊富なイランは、イギリスやソ連にとって侵略の対象でした。
最後の王朝パフレヴィー朝が始まる以前のイランにはトルコ系民族によるカージャール朝が台頭していましたが、1917年に起きたロシア革命の影響でソ連の勢力が衰えたのを良いことにイギリスがイランに対して行動を起こします。
それが1919年の「イギリス・イラン条約」です。この条約はイギリスのイランへの介入を許すもので、イランにとって決して良い条約とは言えません。

パフラヴィー朝成立と独裁化

イギリスはこの条約を守らせるにあたり、コサック旅団の団長であったレザー・ハーンを利用しました。
レザー・ハーンは1921年にイギリスをバックとして2500もの兵を率いイランのテヘランを占領するクーデターを起こしました。
このクーデターで国軍最高司令官に就任して力を持ったレザー・ハーンは、1925年にカージャール朝を廃止しパフラヴィー朝の王として君臨しました。
その後レザー・ハーンはイギリスやソ連の影響力を退けながら、近代的な国づくりを目指しました。
独裁者ではありましたが、1919年に結ばれたイランに不利な条約も、1933年には正当な形で結び直すなど、イランの独立に貢献しました。
しかし、イギリス・ソ連も黙ってはいません。レザー・ハーンは1941年に廃位に追い込まれます。

パフレヴィー2世の白色革命

そしてパフレヴィー2世として即位したのがレザー・ハーンの長男です。イランは国際石油資本(資本と政治の力で石油の開発から全てを行う石油系巨大企業の総称)による石油の支配などから経済的に苦労していました。
そこでパフレヴィー2世は近代化に向け白色革命を企みます。
白色革命とは、国民の投票で土地や労働者の権利などを整える制度ですが、政府の不正な介入により操作されたことで民衆の不満が募りました。
また、アメリカへの石油の輸出で経済は潤ったものの恩恵を受けたのは王に近い人々のみです。これらの極端な西欧化政策は民衆の生活が犠牲になりました。

立ち上がる民衆

イランに帰国したホメイニ師

そこで民衆は、16世紀以来のイランの国教であった「イスラーム教」の教えに基づく政治を求めて各地で反対運動を起こしました。
その最高指導者がシーア派の聖職者ルーホッラー・ホメイニです。ホメイニはこれが原因でイランから追放されてしまいますが、その後も国外から活動の指導を続けました。
1978年、ホメイニを悪く書いた新聞記事が発行されます。これにより「政府が我々を操作しようとしている!」と民衆の怒りが爆発しました。火に油を注ぐような出来事となり、打倒王政の声が強まります。
1979年1月、とうとう収拾がつかなくなりパフレヴィー2世は逃亡します。こうして長い皇帝政治が終わりを告げました。
これがイラン革命です。

ホメイニの台頭

1979年2月追放されていたホメイニがイランに戻り、政権を握ります。ファギーフ(イスラーム法学者)を中心として、かねてより民衆が望んでいたイスラーム教の教えに基づく生活が始まります。この時に国号はイラン・イスラーム共和国に変更されました。
具体的な政策や変化としては、

ポイント

・議会は選挙で決まり、最高指導者は軍の最高指揮官と兼任

・裁判ではイスラーム法が適用

・文化的なものはイスラームの教えの範囲内で許される

・女性は外出時ベジャーブ(髪や肌を覆う布)の着用義務

・問題となっていた石油の国有化

が挙げられます。

革命のその後

こうして成し遂げられることになったイラン革命。

しかしこのイラン革命によってイランは現在にわたるまでアメリカとの対立関係に突入していくことになるのです。

1979年11月 アメリカ大使館占拠人質事件

テヘランのアメリカ大使館の塀を乗り越える学生たち

イランのテヘランにあるアメリカ大使館が、イラン革命で革命派だった学生によって占拠される事件が起こりました。

このきっかけとなったのはパフレヴィー2世の存在です。逃亡したパフレヴィー2世は自らが親しくしていたアメリカに助けを求めます。アメリカ側も革命後のイランとの関係悪化を懸念していましたが、最終的にパフレヴィー2世の入国を許しました。

イラン政府は、パフレヴィー2世を引き渡すように要求しますが、アメリカは応じませんでした。イランの民衆はこれに激怒します。
1979年11月、一部の学生がアメリカ大使館の塀を乗り越えて侵入します。中にいた外交官や警備とその家族など52人を人質にして占拠しました。
アメリカは当時、アメリカのカーター大統領は救出作戦を指示するもうまくいかず失敗。この事件は、カーターが共和党のレーガンに大統領選挙で負けるきっかけになったと言われています。

これにより悪化したイランとアメリカの関係は現在も良いものではありません。

第二次石油危機

イランは石油の国有化に伴い、資源保護のために原油の生産を抑えました。それに伴って輸出を制限したことから世界的に石油が不足し、第二次石油危機が起こります。

1974年の中東戦争により第一次石油危機が起きたときの教訓を生かして対策できた日本などはあまり影響を受けなかったものの、世界に大きな打撃を与えた出来事でした。

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イラン・イラク戦争

イラン革命後、イスラム教の宗派でスンニ派が優位の近隣国は、シーア派系住民による革命が広がることを懸念します。

隣国イラクのサダム・フセイン政権はイランを倒すことを期待したアメリカの支援の下で革命の混乱に乗じてイランに侵攻。その結果このイラン=イラク戦争は8年におよぶ泥沼の戦いになりました。

イラン核疑惑と核合意

革命後の1980年以来、イランとアメリカの関係は良くなることはありません。そしてその対立が一層深まる事態が2002年に起こります。イランが核兵器を開発しているのではという疑惑でした。イラン側としては原子力発電といった平和利用を主張しましたが、これを理由にアメリカや西欧各国などは経済制裁を実施しました。

しかし、バラク・オバマの時代の2015年にアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・中国・ロシアの6カ国は、核兵器に用いるために使える高濃縮ウランや兵器級プルトニウムを15年間生産しないことと、ウラン濃縮に使われる遠心分離機を大幅に減らすことを明記したイランと核開発に関する協定で合意にこぎつけます。

これによってイランとアメリカとの関係は改善すると思われましたが、その後就任したトランプ大統領は2018年5月にオバマ時代に結んだイランとの核合意からの離脱を一方的に宣言して制裁を再開します。

また、2020年1月3日にはイランのソレイマニ司令官の殺害を行っています。アメリカ側の理由はシーア派民兵組織が、アメリカ人や米軍施設への攻撃を計画していたことを殺害理由としています。

しかしトランプ大統領は大統領選挙で敗北。オバマ時代の合意に戻るという期待が高まっています。

いずれにしても報復の連鎖に歯止めはかかるのか。その内容に注目が集まります。

イラン革命の影響は今も続く

以上がイラン革命の概要です。イランの国としての方向性が現在のようになるまでの過程でとても重要な歴史です。

古くからイスラーム教を信仰していたイランの人々にとって、求めていた暮らしを実現させた革命だったのです。

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