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世界史

アフガニスタン侵攻ってどんな戦争?起こったきっかけやオリンピックとの関係についてわかりやすく解説!

今から約40年前の1979年12月ソ連がアフガニスタンに侵攻を開始しました。ソ連とアフガニスタンの小競り合いにアメリカなどの他国も加わり、アフガニスタン侵攻は10年にも及びました。
しかし、なぜ10年にも及ぶ長期化した戦争になってしまったのでしょうか?

今回はそんなアフガニスタン侵攻についてわかりやすく解説していきたいと思います。

アフガニスタン侵攻とは?

アフガニスタン侵攻とは1978年に成立したアフガニスタンにソビエト連邦が軍事介入してから1989年に撤退するまで続いたソ連の軍事介入です。

アフガニスタン紛争やソ連・アフガン戦争ともいわれます。

アフガニスタン国内での戦闘は完全撤収まで約10年に及び、長期化した戦争でソ連側は1万4000人以上が戦死、アフガン側はその数倍の戦死者を出す結果となり、ソ連崩壊の一因やアフガニスタンの混乱の原因にもなりました。

侵攻のきっかけ

1979~1987年までのアフガニスタン民主共和国の国旗

そもそもなぜソ連はアフガニスタンに侵攻したのかについてはアフガニスタンの歴史を振り返っていったほうが分かりやすいかと思いますので、少し振り返ってみます。

ソ連が軍事介入する以前からアフガニスタンは、政権をめぐってクーデターが何回も起こされ、政治的に非常に不安定でした。

1973年それまで王政だったアフガニスタン。国王の従兄弟だったダウードがクーデターを起こし共和国を建国。君主制から共和制へと大きな転換期を迎えました。
ですが、このクーデターに深くかかわった人民民主党は、ソ連の影響を多大に受けた政党だったのです。人民民主党は、共産主義の名のもとに「無神論」を推し進めてきました。

敬虔深いムスリム(イスラム教徒)の国において、無神論を掲げる政策を打ち出し、強制する政党は受け入れがたいものでした。
結果的に宗教右派と政権支持派に国内は分裂。1978年、ダウード大統領は暗殺されます。(4月革命)4月革命後に政権についたのが人民民主党のタラキー。
ですが、政策の失敗により国は貧しくなり、国民からの支持はほぼ得られずタラキーは急死してしまいます。

その後、首相の座についたのがアミーン。ですがアミーンもすぐに殺害されてしまうのです。

こうした不安定な情勢と、不満を募らせたイスラム教徒による反政府ゲリラ行為が相まって、アフガニスタンはますます混迷を極めている状態でした。
そんな危機的状況を打破しようとアミーン首相はソ連へ軍事的援助を要請したのです。

アフガニスタンに侵攻した本当の理由

表向きは、アフガニスタン人民民主党が軍事的援助を求めた結果、ソ連はアフガニスタンに軍事介入したということになっています。
ですが、条約を結んでいる相手に頼まれたからという理由でソ連がホイホイと軍事介入あうるでしょうか。
軍事介入した理由は明確にされておらず、専門家などから仮説がさまざまにたてられていますが、ソ連の方にも目論見があったようです。

ポイント

・直前に起きたイラン革命によってソ連領内のイスラム教徒が刺激を受け、独立への動きを起こさせないようするため。
・アメリカがアフガニスタンへ進出してくるのを阻むため。
・親ソ連だったアミーン首相がアメリカとも外交を持つようになっていたことに危機感をもったソ連指導部が、アミン首相排除するため。

2つめと3つめの理由は、アフガニスタンはソ連から見ると、国防の要に位置しています。こんなところにアメリカの基地を作られたらひとたまりもないと感じたのでしょうか。
最近になって当時の軍事関係者が口を開きはじめているという情報もあります。今後、解明される可能性が高いと思われます。

状況は泥沼化の一途

ソ連軍が侵攻後、アミーン首相はソ連軍の特殊部隊の襲撃により死亡。新しい首相は、ソ連の後押しでバブラク・カルマルとなりました。
ですが、このことはアメリカなどから「内政干渉ではないか」などの声が聞こえてきます。
確かに、アフガニスタンの首相をソ連が決めるっておかしいですよね。ですが、アメリカも人のこと言える立場ではないとツッコミたいです。
他の国々からも、ソ連のアフガニスタン侵攻は「正当な理由のない戦争だ」などどいう意見が多数出ています。

モスクワオリンピックのボイコット

泣いたマスコットキャラクターのミーシャ

こうして始まったアフガニスタン侵攻でしたが、この侵攻によって思わぬ悲劇をもたらすことになります。
1980年にソ連の首都であるモスクワにてオリンピックが開催される予定でしたが、アメリカのカーター大統領がアフガニスタン侵攻に抗議するためににボイコットを主唱。
日本、西ドイツや韓国といったアメリカと特に関係が深い国や、中華人民共和国やイラン、サウジアラビア、パキスタン、エジプトなどといったアフガニスタンの反ソ連組織に支援している国々ら約60カ国近くがボイコットを決めることとなり、モスクワオリンピックは政治関連で翻弄されることになる最悪の大会となってしまいます。
また、ソ連の怒りは尋常なものではなく、4年後の1984年ロサンゼルスオリンピックでは東側諸国を巻き込んだ報復ボイコットをすることにつながりました。

泥沼の紛争へ

新首相も決まり、アフガニスタンの混乱は収まるかと思われますが、状況はどんどんと悪化していきます。
それは、アメリカがソ連軍と対立する集団(ムジャーヒディーン)に武器や資金を援助したり、軍事訓練などを受けさせて裏からサポートしていたからです。
ムジャーヒディーンとは、「ジハードを実行するもの(聖戦士)」という意味の複数形で、アラブ周辺の国々から集まった義勇軍の名称です。

ムジャーヒディーンらは、イスラム教を否定するソ連やアフガニスタン政府に対して、ジハード(聖戦)を行うという大義名分のもとアフガニスタンに結集しました。ムジャーヒディーンの中にはのちにアルカイダの指導者となるビンラディンも参加しています。

なぜアメリカはムジャーヒディーンたちに軍事的援助をしたのでしょうか。
それは当時、アメリカは先に起きたイラン革命で、イランという中東での強力なパートナーを失いました。ですので、ムジャーヒディーンをサポートし、アフガニスタンを手中に収めようという魂胆があったのだと言われています。

裏ではアメリカまで加わり、アフガニスタン侵攻はソ連とアメリカの代理戦争とまで言われました。
国土をいいように利用されたアフガニスタンの国民にとってはかなりの迷惑ですよね。

ソ連の撤退

結果、ソ連のアフガニスタンは10年も続く泥沼となってしまいました。

1988年2月、ようやくゴルバチョフはアフガニスタンからの撤退開始を表明。同年4月、ジュネーブでアフガニスタン和平協定が結ばれ、ソ連軍は撤退を約束しました。

翌年、ソ連軍が完全撤退し、アフガニスタン侵攻は終結しました。

被害の全貌

ソ連のアフガニスタン侵攻は、双方に多大な被害をもたらしました。ソ連軍はおよそ15,000人が死亡し、負傷者はその約5倍にのぼりました。
犠牲者の数の多さから「ソ連のベトナム戦争」と揶揄されてしまうほどでした。

そしてアフガニスタン関連の軍事費が増大したことでブレジネフ時代にはすでに硬直化した経済の停滞がさらに加速。

ソ連でも大きな問題となり、ソ連崩壊の一因となりました。

アフガニスタン側の被害も深刻です。戦闘員は約9万人死亡し、一般市民は150万人もを死者を出したと言われています。

戦争により、大部分の成人が死亡してしまい、戦後は国民の半分が14歳以下になってしまうという状況でした。

この戦争の影響は大きく、いまだにアフガニスタンの成長を阻んでいる原因ともなっています。

まとめ

このアフガニスタン侵攻では余計に混乱と新たな戦争の火種を生んでしまっています。

その後、混乱したアフガニスタンではタリバンが勢力を強めていき、2001年に9.11のテロを起こしました。
そして9.11をきっかけにアメリカによってまたアフガニスタンは攻撃されてしまいます。

そしてアフガニスタンはまた新しい戦争に突入していくのです。

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