中国の次に人口が多いインド。豊富な労働力で経済発展が期待されています。
しかし、第二次世界大戦以前はインドはイギリスの植民地だったのです。
今回はそんなインドがイギリスの支配下に置かれてしまうきっかけとなったインド大反乱について見ていきたいと思います。
この記事の目次
インド大反乱とは?

インド大反乱は1857年から1858年の間にインドで起きたイギリスの植民地支配に対する民族的抵抗運動のことです。
主な人物が東インド会社のインド人傭兵のシパーヒー(セポイ)と呼んだことから、かつてはシパーヒーの乱、セポイの反乱と呼ばれていましたが、反乱がインド社会全体に広がっていた事から最近ではインド大反乱と呼ばれることが普通となっています。
インド大反乱のきっかけ
インド大反乱について説明しようとすると、その前の18世紀の頃から語る必要があるでしょう。
まずはどうしてイギリスがインドに進出していったのかについてみていきたいとおもいます。
西欧列強のインドへの進出
ムガル帝国の時代から、西欧の列強がインド支配に乗り出します。
ポルトガルは、バスコ・ダ・ガマが発見したカリカットの近く、インド西岸のゴアを長く拠点としました。
イギリスは、ボンベイ、マドラス、カルカッタを拠点にします。ボンベイも、インドの西岸にあります。マドラスは、インドの東岸に、ベンガル地方のガンジス川の河口に、カルカッタがあります。
一方、フランスも、インドを植民地化しようと、ポンディシェリ、シャンデルナゴルを拠点にします。ポンディシェリはマドラスのすぐ近くです。シャンデルナゴルもカルカッタの近くにあります。
そこで、イギリスとフランスは戦争になります。イギリスとフランスのインドにおける主導権争いです。七年戦争の一環といってもよいでしょう。
イギリスとフランスの戦争
カーナティック戦争は1744~61年、南インドのマドラスとポンディシェリの辺りで計3回起こります。この戦いは、イギリスが勝利します。
1757年、カルカッタとシャンデルナゴルの近くで、プラッシーの戦いが起こります。イギリス東インド会社のクライヴが率いる軍と、フランスのベンガル太守軍とが戦いました。プラッシーの戦いも、イギリスの勝利に終わります。
これにより、イギリスがインド支配の主導権を握ることとなりました。
イギリスによるインド植民地化
イギリスは、まず、インド東側のベンガル地方を支配します。次に、1767年、マイソール戦争によって、南インドを支配しました。マイソール王国のイスラム政権君主、ティブー=スルタンは、イギリスから「マイソールの虎」と恐れられていました。
その中に、虎がヨーロッパ人の人形を苦しめる玩具があり反英感情が表現されています。続いて、1775年には、マラーター戦争で、イギリスはマラーター同盟を破りインド中部を支配。
1845年に起きたシク戦争で、イギリスはシク教徒を破りインド西北部も支配しました。こうしてイギリスは、インド全土を支配することとなりました。
東インド会社によるインド支配

イギリスは東インド会社に香辛料やお茶など、アジア貿易を独占させていました。
それにより、東インド会社は大いに儲けていました。19世紀になるとイギリスのほかの商人たちが自由な商売を求めます。そこでイギリスは、東インド会社に独占させることをやめました。
その結果、東インド会社は、貿易会社から、インドを治める機関に変化します。インドの領主となった東インド会社は、インドに圧力をかけていきます。重い税金をかけたのです。
北インドでは、ザミンダーリー制という制度がしかれました。地主に土地所有を認める代わりに、重い税をかけたのです。南インドでは、ライヤットワーリー制という制度でした。
これは、農民に土地所有を認める代わりに、重い税をかけるものでした。いずれにしても、インド人は、重い税金をかけられて、苦しむことになったのです。
当時、インドではマハラジャが土地を支配していました。それを、東インド会社は、地主や農民たちが土地の所有者としました。重い税金をかけられたインドの農村は困窮していきます。
それと比べ、植民地のイギリス人は、高給でした。彼らは、インドの伝統的な社会を破壊しました。
また、インド人を使役し、貴族のような生活をしたため、インド人の反感をかうことになりました。そこで溜まりに溜まったインド人の不満が爆発したのが、インド大反乱なのです。
インド大反乱の勃発
東インド会社は領主のようにふるまっており、インド人を雇って兵隊としていました。これがインド人の傭兵シパーヒーです。
約28万人のシパーヒーが、5万人弱のイギリス人将兵に率いられていました。
イギリスは、シパーヒーに武器である銃を渡します。今は金属で作られている薬莢が、当時は紙でした。
弾を包んである薬莢代わりの紙に、湿気を防ぐため、また滑りをよくするために、牛や豚の脂を塗ってありました。紙を口で破って銃にこめるのです。
ところがインド人のほとんどは、イスラム教徒かヒンドゥー教徒です。イスラム教徒は豚を不浄とします。ですから豚肉を口にすることはできません。
なのに、豚の脂のついた紙を口で破らなければならない。また、ヒンドゥー教徒は牛を神聖なものとしています。神の使いの生き物を口にすることも許されません。
自分たちの大切にしている宗教上の決まりをないがしろにされることに怒ったインド人傭兵は、1857年、イギリスに対して反乱を起こしました。
きっかけは弾薬包でしたが、待遇などの不満もあったのです。
東インド会社に重い税をかけられていたインド人たちも、こぞってイギリスに対して反乱を起こします。反乱が全インドに広がりました。
5月、反乱軍はデリーを占拠。反乱を起こしたシパーヒーたちは、有名無実となっていたムガル皇帝を擁立しました。しかし、9月にはイギリスがグルカ兵などを使って、デリーを奪回します。
「インドのジャンヌダルク」ラクシュミ=バーイ

ラクシュミ=バーイはインドの小さな王国の王妃でした。しかし王は後継ぎがいないまま亡くなってしまい、そこにつけいったイギリスは王国を併合。王国をイギリスに奪われたラクシュミ=バーイは、大反乱に加わって戦いました。
彼女は1958年に戦死してしまいますが、敵の将軍に「最も優れた、最も勇敢な者」と称えられました。
ラクシュミ=バーイは今でも、「インドのジャンヌダルク」と呼ばれ、民族の英雄として崇敬されています。
東インド会社の解散とムガル帝国の滅亡
このような大反乱が起きたのでイギリスは、インドの支配を東インド会社にまかせることができなくなりました。
そこで、1858年、東インド会社は、インドに反乱が起きてしまうという不始末を起こしたということで解散となりました。擁立されていたムガル皇帝も廃位となり、流刑となりまた。
ここに、ムガル帝国は滅亡します。
インド帝国の成立

1877年、イギリス本国がインドを直接統治するようになります。
これがインド帝国です。首都はカルカッタ。インド帝国の皇帝は、当時のイギリス女王であるヴィクトリア女王です。ようするに兼任です。ここに植民地が完成しました。
1877年1月1日、デリーでヴィクトリア女王のインド皇帝宣言式が行われました。
インド大反乱の意義
イギリスでは、これをシパーヒーの反乱(セポイの反乱)と呼んでいました。しかし、これは単なる傭兵の反乱ではありませんでした。
実態は、重税にあえぐ、領主や農民を含む、インド人全体の大反乱だったのです。その事実を隠蔽し、事態を軽く見るためにも、シパーヒーの反乱と言っていたわけです。しかしながら、この反乱は、帝国の支配に立ち向かう民族運動でした。そこで、現在では、インド独立戦争、あるいは「インド大反乱」と呼ばれるようになったのです。
この時は、まだ、団結力が弱く、イギリスの近代兵器にもかなわなかったので、鎮圧されてしまいました。シク教徒やグルカ人はイギリス人を支援しました。
また、南方のニザム、北方のシスンディア、ほかの多くのインド内の国々がイギリス側に立ちました。
それだけでなく、封建秩序を回復するために戦ったのが敗因だとネルーは著書に書いています。
しかし、インド大反乱は反英戦争の一歩となったのでした。