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政治用語 日本史

藩閥政治とはどんな政治?意味から藩閥政治の変遷、政党政治への移行までわかりやすく解説!

明治時代の初め。日本における政治運営は一部の人間のみが独占して行っている状態にありました。

特に幕末に活躍した藩における影響力は強いもので、彼らによって日本の近代化は推進されることになります。

今回はそんな明治時代初期の政治体制である藩閥政治について解説していきたいと思います!

藩閥政治とは

藩閥政治とは明治維新の立役者であった、「薩長土肥」と言われる薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩の出身者が実権を掌握して行った政治です。「閥」とは、共通の属性をもった排他的な集まりで、閥内の利益を優先する傾向がある私的な組織と定義されます。
明治政府は、廃藩置県や徴兵令などの政策によって権力を集中させていきました。征韓論をめぐる分裂や、明治一四年の政変以降は、政府内でも薩長閥がさらに大きな権力を持つことになります。しかし、そうした藩閥政治への反発は、広く民衆にも広まり、自由民権運動や大正時代の護憲運動によって、政党政治へと移行していくことになるのです。

藩閥政治の誕生と変遷

明治維新によって誕生した明治政府は、欧米列強の圧力に対抗しながら、国家の独立を維持していく必要がありました。そのため、廃藩置県や徴兵令など、矢継ぎ早に政策を実行し、中央集権体制を確立していくことになります。明治政府の誕生から、特定の藩出身者に権力が集中していく藩閥政治の変遷を、時系列で追っていきます。

明治政府の誕生と中央集権体制の確立

1867年の大政奉還、王政復古の大号令によって明治政府が樹立されます。その後の戊辰戦争で、薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍が旧幕府軍を破り、明治政府が日本の政治を動かしていくことになります。
明治政府のメンバーは、明治維新で中心的な役割を果たした人物で構成されました。薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、長州藩の木戸孝允、伊藤博文、土佐藩の板垣退助、肥前藩の大隈重信など、「薩長土肥」と言われる藩出身者が中心でした。公家の三条実美、岩倉具視も、明治天皇の側近として、中枢の役職に就いています。
明治政府は、明治天皇を中心とした中央集権体制を確立させるため、社会のあらゆる面で急速な改革を進めました。
1869年には、藩主が治めていた土地と人民を朝廷に返す「版籍奉還」を行います。反発を抑えるため、薩長土肥の4藩が率先して奉還し、藩主は知藩事として任命されました。これにより、各藩を政府が法的に統制できるようになりましたが、より強固な中央集権体制を目指し、1871年には廃藩置県が発令されます。全国の藩は廃止され、代わりに府や県が配置されました。旧藩主の知藩事は、東京に集住させ、財産や住居を保証することで不満を抑え込みました。府知事や県令を各地に派遣し、政府の命令で全国を統制できるようになり、中央集権体制が確立したと言えます。
また政府は、身分制や兵制でも改革を行いました。公家と大名を“華族”、一般武士を“士族”、農工商民を“平民”とする四民平等政策が実施されます。平民は苗字を持つこと、職業・居住の自由を与えられた一方、士族に対する給与であった「秩禄」は廃止されました。禄の数年分を保証する“金禄公債証書”が発行されましたが、それだけでは生活できず、慣れない商売に手を出す“士族の商法”で、没落する者も続出しました。秩禄の廃止によって、政府の重い財政負担は解消されましたが、士族の政府への不満は高まっていきます。
その後に発令された「徴兵令」では、20歳以上の男子には、3年間の兵役義務が課されるようになり、在意義も失うことになった士族は、さらに追い詰められていくことになるのです。
このほか、欧米の近代思想や学問を導入する「文明開化」政策、富岡製糸場などの官営工場の設置や北海道開拓などの殖産興業政策、財政を安定させるための「地租改正」など、多くの改革が、政府主導で短期間に実行されていきました。
当時の社会状況として、欧米列強に対抗するためには、社会システムや文明を近代化することは急務でしたが、急激な改革には、不満を持つ者も多かったと言います。特に職を失った士族は、政府への不満を高めていくことになります。

明治六年の政変と自由民権運動

明治政府内でも、征韓論を発端に、西郷や板垣ら中枢メンバーが下野するという、大きな政変が起きます。
1871年、欧米視察と不平等条約改正の予備交渉を目的に、岩倉具視を全権大使にした「岩倉使節団」が渡米します。その間、留守政府を預かっていた西郷隆盛を中心とする征韓派と、井上馨ら反対派の対立が起こります。西郷らが唱えた「征韓論」は、朝鮮へ武力行使することで国交を開こうというもの。政府の士族解体政策で没落した士族の不満を国外に向けさせ、さらに士族の救済も目指したものでした。しかし、1873年に岩倉使節団が帰国。使節団のメンバーである大久保利通、木戸孝允は征韓論に反対し、内治優先を主張したことで激しく対立します。欧米の発展を目の当たりにし、日本の近代化を最優先したい内治派と、士族の政府に対する不満を何とかしたい征韓派の意見の相違は深刻で、盟友であったはずの西郷と大久保は袂を分かつことに。その結果、西郷の朝鮮派遣は中止され、征韓派の参議、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らは政権を去ることになります。この出来事は明治六年の政変と呼ばれます。
政変後、征韓派が下野した政府内部では、初代内務卿となった大久保が、殖産興業、治安維持、地方政治など、内政の全般を取り仕切るようになりました。
下野した板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らは、愛国公党を結成、藩閥政治を批判し、1874年には民選議院設立建白書を提出、国会開設を要求する自由民権運動が高まりを見せます。
一方、こうした現状に、秩禄廃止や廃刀令など、特権を奪われてきた士族の不満が頂点に達し、各地で反乱が起こります。江藤新平率いる佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして1877年の西郷隆盛率いる西南戦争まで続き、政府はこれを武力でもって制圧しました。
その後の反政府運動は、自由民権運動が中心になっていきます。
「明治六年の政変」は、士族の反乱や自由民権運動高揚のきかっけになると同時に、政府内では大久保を中心とした藩閥専制体制が、より権力を集中していく契機にもなりました。

明治十四年の政変と憲法制定

1878年、不平士族に襲撃され、大久保利通が暗殺されるという紀尾井坂の変が起こります。内務卿という政権の中心人物であった大久保の死は、政府にとっても大きな衝撃でした。
大久保の死後も、民衆の支持を得て、自由民権運動はますます発展していきます。政府内では、自由民権運動が求める国会開設と憲法制定をめぐり、即時国会開設論を唱える大隈重信ら土肥閥と、時期尚早論を唱える伊藤博文ら薩長閥の対立が起こります。ちょうど世間を騒がせていた開拓使官有物払い下げ事件を契機に、大隈は罷免され、伊藤らに政府から追放されてしまいます。この明治十四年の政変により、伊藤博文(長州)、黒田清隆(薩摩)、松方正義(薩摩)、山形有朋(長州)ら薩長閥が政府を取り仕切り、より権力の集中した藩閥政治が継続することにもなりました。
また、時を同じくして、天皇が10年後に国会開設を公約した「国会開設の勅諭」が発せられます。自由民権運動と同様に、政府も国会開設と憲法制定の必要性は、認識していました。日米修好通商条約などの不平等条約を改正するためには、欧米に対抗できる近代化した国の仕組みが必要だったのです。そこで伊藤博文らは、ヨーロッパに渡って憲法調査を行いました。君主権が大きく、強い軍事力をもつプロシア(ドイツ)憲法を学んで帰国します。
1885年には「内閣制度」を創設し、伊藤は初代総理大臣になって実権を握り、憲法の草案起草の作成に取りかかります。そして、1889年、天皇を中心とした「大日本帝国憲法」が発令されます。明治憲法とも呼ばれるこの憲法の成立は、日本が近代憲法を有する立憲君主国家になったことを意味しました。

藩閥政治から政党政治へ

政党が誕生し、議会が開かれても、薩長を中心とした藩閥政治は、依然として続いていました。内閣をはじめ、官僚、軍部、枢密院、貴族院など、重要なポストは薩長の藩閥で占められ、実力者は第一線を退いても「元老」という立場で影響力を行使し続けることが可能でした。
しかし、時代が明治から大正へと変わり、日清・日露戦争を経て、国民の意識は変化していきます。憲法に基づいた政治を求める大正デモクラシーの中で、藩閥政治は権力を失っていくことになります。

超然主義から政党との連携へ

国会開設が決まると、政党内閣の実現を目指して、いくつかの政党が結党されます。板垣退助の「自由党」、大隈重信の「立憲改進党」は反政府の立場、福地源一郎の「立憲帝政党」は政府支持の政党でした。
ところが、憲法発布の翌日、黒田清隆内閣総理大臣は「超然主義演説」を行い、政府は政党の意見を聞かないという態度を表明しました。初期の議会においては、藩閥政治はこの超然主義を貫きます。
その後も藩閥政治は続き、初代の伊藤内閣以降、第7代までと第9代、第10代の内閣総理大臣は、すべて薩長閥の出身者という状況でした。それ以降は桂園時代と言われ、桂太郎と西園寺公望が交代で内閣を組閣しますが、伊藤博文や山県有朋、黒田清隆、井上馨らが「元老」として影響力を保持し続けます。こうした藩閥政治に対し、憲法に規定された“議会を尊重する政治”を求める声は、ますます強くなっていきます。
ただ、政府と政党の関係は、時代とともに変化していきます。日清戦争時の伊藤内閣は、政党勢力と提携、日清戦争後は政党もふくめて国をまとめる必要性から、「立憲政友会」を創立しました。一方、同じ長州閥の山県内閣は、文官任用令改正や軍部大臣現役武官制の導入など、政党が内閣や官僚組織に関われないよう政党弾圧策を実施します。政府の中でも、意見の相違が見られました。

第一次護憲運動と政党内閣の誕生

大正時代になった1912年、「第一次護憲運動」が展開されます。“閥族打破”“憲政擁護”をスローガンに、藩閥政治から政党政治への移行を目指しました。中心となったのは、立憲政友会の尾崎幸雄と、立憲国民党の犬養毅です。この運動には、多くの民衆も参加しました。背景には、日露戦争で大幅な増税、都市と農村の格差拡大など、高まる不満があったと考えられます。
こうした護憲運動の高まりによって、藩閥内閣が退陣させられる大正政変も起きています。時の内閣、桂内閣は、議会で不利な状況になると天皇の詔勅を使い、天皇の権限を政治利用していると批判されていました。尾崎らは不信任決議案を提出し、桂内閣を退陣に追い込みます。その後も藩閥政治は続きますが、多くの民衆が望んだ議会を尊重する政党政治は、1918年の原敬内閣誕生で果たされることになります。
「シベリア出兵」で米価が高騰し、富山で起きた米騒動は、全国に飛び火し、暴徒化しました。政府は軍隊を派遣して事態の収拾を図りますが、さらに規模が拡大し、責任を問われた、寺内正毅内閣は総辞職に追い込まれます。
ここで初めて、本格的な政党内閣が誕生します。立憲政友会総裁であり、選挙で選ばれた政党政治家である原敬が総理大臣になり、閣僚にも藩閥出身者はほとんどいませんでした。
その後の第二次護憲運動によって政党政治は確立し、有力な元老の死去などもあって、藩閥政治は終焉を迎えることになります。

まとめ

明治維新を経た明治新政府は、欧米列強に対抗するためにも、中央集権体制を確立する政策を矢継ぎ早に実行していきます。痛みを伴う改革は、大きな反発も招き、士族の反乱や自由民権運動、それに続く護憲運動の盛り上がりにもつながっていきます。政府内部においても、征韓論をめぐる分裂や、明治六年の政変、明治十四年の政変など、対立を抱えながら国の中枢を担ってきました。
一部の勢力に権力が集中する藩閥政治は、既得権益を守ろうとする負の部分もありながら、政策を迅速に実行できる機動力があり、政権の初期段階では有効な政治形態と言えるかもしれません。ただ、法に基づいた高度な政治システムが確立されていくにつれ、少数精鋭のゼネラリストの集団から、各々の専門性を高めたスペシャリストの集団への移行が求められるようになります。藩閥政治から政党政治への移行は、日本の発展のためには必然であったと言えるかもしれません。

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