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世界史

湾岸戦争ってどんな戦争?概要や原因をわかりやすく解説!

1989年に冷戦が終結して長年にわたるアメリカとソ連の対立構造が終わり、世界は新しい時代に突入することになります。 そしてこの新しい局面で初めて起こった戦争となったのが1990年に起こった湾岸戦争でした。

今回はそんな湾岸戦争について詳しく解説していきたいと思います。

湾岸戦争の概要

湾岸戦争とはイラクのサダム・フセイン政権とアメリカを中心とした多国籍軍によって行われた戦争です。日本ではイラン・イラク戦争と区別する際に特に湾岸戦争と呼びます。この戦争は自体は結構早くで終結しましたが、この湾岸戦争によってアメリカとイラクの関係や中東情勢そして日本の自衛隊派遣に大きな影響を与えることになります。

さらにはこの戦争はアメリカとソ連が冷戦を終結させたのちに起こったはじめての国際戦争であり、新時代の争いの幕開けを象徴する戦争でもありました。

イラクのクウェート侵攻

イラクは1980年から1988年まで、隣国イランと両国の国境付近にあり石油輸送の要所であるシャットルアラブ川流域の領有権を巡ってイラン・イラク戦争を行いました(結果は両国が国連決議を受諾して停戦。)。8年間に及ぶ戦争により膨大な債務を抱え経済が行き詰ったイラクは、数少ない外貨獲得手段である石油の輸出を有利に行うため石油の減産による価格上昇をOPEC(石油輸出国機構)に求めました。

しかし、OPECはこれに応じず、そればかりかクウェート、サウジアラビア及びアラブ首長国連邦はOPECの割当量を超えて増産を行っておりました。これらの国に対してイラクは増産の停止を訴えましたが、アラブ首長国連邦が増産を縮小したもののクウェートとサウジアラビアは何の行動も起こしませんでした。そこでイラクは隣国クウェートとの国境付近に軍隊を派遣して軍事的威嚇をしたのですが、クウェート等は単なる脅しとたかをくくっていました。ところが、1990年8月2日、イラク軍はクウェート国境を突破して侵攻を開始し奇襲を受けたクウェート軍はわずか数時間で制圧され、イラク軍はさらにその日のうちにサウジアラビア国境付近まで南進し8月8日にはクウェートの併合を決定しました

砂漠の嵐作戦

砂漠の嵐作戦の作戦進路

1990年8月7日、アメリカは同盟国であり最も多く石油の供給を受けるサウジアラビアがイラクに攻撃される危険性があると考え、サウジアラビアにアメリカ軍の派遣を決定しその他の同盟国や友好国にも協力を要請しました。アメリカの要請に応えて、イラクに攻撃されることを恐れたペルシャ湾岸産油国のサウジアラビア、バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦、アラブ連盟のエジプト、シリア、モロッコ、ヨーロッパのイギリス、フランス、イタリア等々28カ国の兵士からなる多国籍軍がサウジアラビアのイラク及びクウェートとの国境付近に進駐を開始しました。
イラクは、自軍がクウェートに侵攻した日と同じ日に国連安全保障理事会で採択された即時無条件撤退を求める決議を無視し、クウェートの占領を継続し、クウェートから脱出できなかった外国人を自国内の施設に「人間の盾」として監禁し、その後の度重なる国連決議も無視しました。
国連安全保障理事会は1990年11月29日、翌年の1月15日をイラク軍のクウェートからの撤退期限とした決議を採択しましたが、相変わらずイラクはないがしろにしていたところ、多国籍軍は1月17日に宣戦布告をすることもなくイラクの首都バグダッドへの空爆を開始し湾岸戦争が始まりました。多国籍軍によるイラク国内の施設やクウェートに展開するイラク軍地上部隊への空爆は戦争の全期間を通じて継続されましたが、この空爆を「砂漠の嵐作戦」といいます。

砂漠の剣作戦

1か月以上に及んだ空爆「砂漠の嵐作戦」によりイラク国内の主要な軍事施設や政府施設等はほとんどが破壊され、イラク軍は消耗し士気が下がりました。2月24日、多国籍軍による大規模地上攻勢「砂漠の剣作戦」が開始され、攻勢はサウジアラビア東北部からクウェート、イラク南部へと北上する形でかけられ多国籍軍は3日間でクウェートの首都クウェート市を奪還しました。

終結~多国籍軍の攻撃停止

多国籍軍がクウェート市を奪還した頃にはイラク軍の抵抗は完全にしずまっており、2月28日には多国籍軍の攻撃は停止されました。3月3日にイラクが暫定休戦協定を受け入れ、4月3日に国連安全保障理事会でイラクに対し「化学、生物兵器の無力化の無条件受け入れ」「核兵器を開発しないことの無条件同意」「弾道ミサイルの無力化の無条件受け入れ」「大量破壊兵器の開発や入手をしないこと」「テロ組織がイラク国内で活動することを許さないこと」「クウエートから没収した財産を返還すること」等々を要求する決議が採択され、4月6日にイラクが受諾して正式に停戦が合意されました。

日本の立場

日本はアメリカの同盟国でありますが多国籍軍に加わることはなく総額130億ドルの資金と四輪駆動車等の物資の提供を行いました。130億ドルという額は湾岸戦争の戦費の合計額610億ドルの2割に相当するほどの巨額なものでした。
アメリカからは軍事的貢献も求められましたが、自衛隊は発足以来一度も部隊として国外に出たことはなく、また、そのための訓練や法整備もされていなかったので、日本は軍事的貢献をすることはありませんでした。このことにより、日本は巨額な資金援助を行ったにもかかわらず国際的には湾岸戦争への貢献を評価されることはなく、クウェート政府がアメリカの主要な新聞に掲載した感謝広告には日本の名はありませんでした。
湾岸戦争で得た教訓により日本は人的な国際貢献の必要性を認識し、1992年には国際平和協力法(PKO法)を成立させ、これにより自衛隊を国連平和維持活動へ派遣することができるようになりました。しかし、国際法上では全ての国が当然に有していると考えられている集団的自衛権の行使や海外での武力行使は、日本国憲法上では違憲とされていると考える立場もあり、戦争における日本の人的国際貢献は問題を含んでおります。

イラク戦争によるサダムフセイン政権の崩壊

イラクは多国籍軍の監視下に置かれ厳しい経済制裁下にありましたが、サダムフセイン政権は存続し、湾岸戦争後も国内の反対勢力を弾圧し独裁政権を強めておりました。

アメリカはイラクが国連決議に反して核や大量破壊兵器を開発している疑惑があるので国連の査察を受け入れるよう強く求めました。それに対してイラクは査察受け入れを拒否しましたが、アメリカによる糾弾により渋々国連の査察を受け入れました。査察後の国連の報告によっては核や大量破壊兵器開発の確証は得られませんでしたが、疑惑を払拭できないアメリカはイギリスなどと共にイラクに対する武力行使を決意し、2003年3月19日、空爆を開始しイラク戦争が始まりました。この戦争によってイラクのサダムフセイン政権は崩壊しましたが、核や破壊兵器を開発していた証拠を見つけ出すことはできませんでした。

イラクはフセインによる独裁は免れることになりましたが、アメリカの占領政策の失敗やイラク政府の無策、イスラム教シーア派とスンニ派の対立、テロの頻発などにより国内の治安は悪化しており政治的混乱も続いております。

湾岸戦争でまなぶこと

これからの将来、身近にこういった出来事が起こる可能性が極めて高いでしょう。
この現代において日本が、どこかの国と戦争をするということはあり得ないとほとんどの日本人は感じています。しかし、日本が、過去に他国と戦争をしていた時期は、決して短い期間ではありません。日本政府は、大きな痛手を負い、それを反省した故に、長年日本人の安全と平和な生活を守ってきたのです。
過去を振り返り未来を見つめ、私たちの子孫のためによりよい世界を築くことができるように考えることが今私たちにできることだと思います。

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