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政治用語 日本史

55年体制ってどんな体制?成立から終焉までをわかりやすく解説!

2020年8月20日

サンフランシスコ講和条約を巡り、1955年に社会党と自民党によってできた55年体制。政治不信が原因となり1993年の総選挙で自民党が過半数割れをし、この制度は終わりを告げました。

この記事では55年体制の始まりと背景、社会党と自民党について、そして制度の崩壊までについて解説していきたいと思います。

55年体制とは?

55年体制とは戦後の1955年から始まった野党第一党の社会党と与党第一党の自民党の二党を軸にした政治体制のことです。1955年にできたため55年体制と呼ばれています。鈴木茂三郎委らの左派と河上丈太郎らの右派に分裂していた日本社会党が1995年10月に統一させ、それに対抗して同じく分裂していた保守勢力である吉田茂らの自由党と鳩山一郎らの民主党も同年の11月に保守合同をしたことによって自由民主党が結成されました。これにより、国会の議席を自民党と社会党で分け合う二大政党制の構図ができました。この体制のことを55年体制といいます。

政権は長期にわたって自民党が握り、自民党の半分以下しか議席を獲得できなかった社会党は野党を担ってていましたが、自民党は議席の3分の2を獲得し社会党は議席を3分の1しか獲得できなかったことから「1と2分の1政党制」とも呼ばれています。保守の自民党、革新の社会党として機能していた両党は対立していた反面、癒着構造が作られていくことになります。

与党・野党とは?

政権を担当しているのが与党。二大政党制である国に対して用いられてきた用語であり、国政において多数の支持を得た政党から総理大臣が選ばれて政権を担うといったもの。国会における多数派ともとらえることができます。

政権を担当していないのが野党。「行政から外れた在野の政党」を意味します。与党は衆議院の議席数を半数以上獲得しているのに対し、野党は半分以下の議席数しか獲得していないところが特徴。野党も法律案を提出することができるが、与党の賛成がない限りその法案が通ることがないのが大きな違いだと言えます。

55年体制成立の背景

1951年に日米安全保障条約とサンフランシスコ講和条約の締結、再軍備に対して意見が分かれた社会党は左派と右派に分かれました。しかし、憲法改正や逆コースに対抗するため1955年に左右両派は4年後再統一しました。一方で自由党と民主党は改憲に賛成であったため、財界からの要請もあり保守合同をして自由民主党が結成されました。

こういった背景から55年体制は出来上がりました。

日本社会党の統一について

左派と右派で分裂していた日本社会党が左派の躍進によって1955年の2月に統一され、憲法改正を防止するために集結した両派は社会党として3分の1の議席を獲得しました。これは再軍備と憲法改正を防止するためであり、鳩山一郎率いる民主党は憲法改正を狙ってていた。このような日本社会党を中心とした憲法改正反対の立場をとる勢力を革新勢力と呼びます。

自由党と自民党の保守合同について

反対に保守勢力である自由党と日本民主党も分裂していたが、日本社会党が統一されたことに触発されて保守合同を行います。自民党は議席の3分の2を獲得し、長期にわたって一党優位制を維持しました。当時、他の政党より圧倒的に多くの議席を自民党が持っており、議席のほとんどが社会党と自民党で占められてていました。

保守・革新とは?

保守とは従来の考え方、習慣に重きを置き、急激な改革を拒んで現状を維持させようとする立場をとる勢力のことであります。右翼的な発想の勢力としてみなされています。

一方、革新とは従来の考え方、習慣を変えて物事をより良くしていこうという立場をとる勢力のことであります。戦後における革新は、左翼的な発想の勢力としてみなされています。

これらは基本的に政治勢力を二つに部類するときに使われる用語であり、自民党と社会党に結びつけて用いられることが多いです。

55年体制の崩壊

この制度は40年近く続ていました。しかし、政治改革が焦点となった1993年の総選挙で自民党は過半数割れをし、自民党から派生した新生党、新党さきがけが、社会党、民社党、公明党、日本新党などの非自民8党派の連立政権が発足した。そのことにより日本新党である細川護煕連立政権が誕生したことで55年制度は崩壊しました。

自民党はリクルート事件や東京佐川急便事件などの金に関わるスキャンダルへの対処ができず。自民党の汚職が長期政権の下で多々おきたため政治不信につながったことが原因だとされています。

リクルート事件とは?

1986年9月、情報サービス会社であるリクルート社が事業拡大を狙って株式譲渡という形で政界、経済界、マスコミの実力者らに子会社であるリクルートコスモスの未公開株を譲渡した事件のことです。

結果、当時のリクルート社会長、NTT会長、藤波孝生元官房長官が逮捕され、1989年には責任をとるといった形で竹下登内閣が辞任をしました。この事件で贈収賄罪などの罪に問われ12人が起訴されることになります。株式は本人や秘書名義で未公開株を譲渡していたそうで、このことが発覚したのは1988年であり、川崎市助役へ株を譲渡したことが契機となって明るみに出ました。これをきっかけに、財界や経済界などにも未公開株を譲渡していたことが明らかになっていくことになります。リクルート社は政治家が主催するパーティの券を大量購入し、献金を政治家に渡すなどといったこともしていたのですが、当然のことながらこれが発覚したとき国内では政治不信が起こるきっかけとなりました。

東京佐川急便事件とは?

当時の東京佐川急便の経営陣が指定暴力団系企業、医療機器販売会社へ総額5200億の多額の責務保証、政治家への多額のヤミ献金を行った事件です。当時の東京佐川急便の社長ら5人が特別背任罪で起訴された。当時の自民党副総裁である金丸信は5億円の献金を受け取っており、政治資金規正法違反罪で起訴された。有罪となり、20万円の罰金刑が下されたのだが受け取った献金が5億なのに対し、たった20万の罰金であったことに国民は不満をつのらせた。また、金丸は多額の脱税もしていてそのことが事件の捜査の過程で発覚し、後に脱税容疑で逮捕されました。

当時の新潟県知事の金子清も3億円の献金を受け取っており、金丸は罰金の略式起訴で済んだのに対してこちらの件は公式起訴されました。大物の政治家は特別扱いをされるといった認識を国民は持つようになり、いわゆる政治不信につながることになります。

またこの当時の自民党の最大派閥であった経世会では小沢一郎と梶山静六が事態の収拾をめぐって対立が激化(一六戦争)。分裂は決定的となり小沢は羽田孜・渡部恒三と共に経世会を離脱して羽田派を旗揚げをおこなって新生党を結成しました。

細川連立内閣の誕生

このように自民党の不信感を募らせていくことにつながる事件が立て続けに起こりましたが、1993年8月の衆議院選挙でついに衆議院で過半数を割り自民党は惨敗。

小沢一郎と羽田孜の新生党や、同じく自民党から分かれた新党さきがけ、そして元熊本県知事の細川護熙が作った日本新党が自民党の代わりに多くの議席を獲得したことによって日本新党の細川護熙を中心とした7党(8会派)(日本新党、新生党、新党さきがけ、日本社会党、民社党、公明党、社会民主連合、民主改革連合)が連立を組み、細川護熙内閣が成立しました。こうして1955年から38年続いた55年体制は崩壊したのです。

まとめ

55年体制とは保守・革新両勢力の合同によってできた政治状況であり、自民党政権を前提とした擬似的な二大政党制であったため、日本の政治はとても安定した状態となりました。しかし、その結果汚職が蔓延することになります。

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