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世界史

名誉革命とはどんな革命?名誉革命の歴史と背後とその後のイギリスについて解説!

革命と言うものは基本的に血が流れて最悪の場合は戦争に突入します。

しかし、時にはさっさと権力を持っている人が観念して自らその権力を民衆に明け渡すということがあります

本記事ではそんな名誉な革命である名誉革命の背後、その後にある影響を解説していきます。

名誉革命とは

名誉革命とは1688年~1689年の間にイギリスの議会が国王を追放したことで国王は議会に完全に歯向かうことができなくなり、立憲政治が成立した革命のことです。

名誉革命の結果としてメアリー2世とオランダ総監ウィリアム3世が王位に即位。その後に権利の章典が配布され、イギリスの立憲王政の確立しました。

名誉革命の歴史に見る背景

名誉革命を理解するために、背景にある流れを知っておくことが重要となります。
ここからは、名誉革命の背後にあった「クロムウェルの独裁」「王政復古」について解説します。

共和政/クロムウェルの独裁の開始

クロムウェル

国王のいない「共和制の時代」が1649年~1660年でした。市民は圧制からの開放となり生活への期待が生まれましたが、クロムウェルの独裁が始まります。チャルーズ1世が処刑された清教徒革命(別名ピューリタン革命)後の政治体制です。共和政の主導者は清教徒革命の議会派リーダーであるクロムウェルですが、その後彼は護国卿という役職に就任しました。

クロムウェルの征服

クロムウェルは、1649年「アイルランド」の土地を没収、奪った土地は勝手にイギリス国民へ配り人気を得ようとしました。
明年「スコットランド」を征服し、清教徒革命で議会派と対抗した国王支持派の残存を攻めうちます。
対象は絶対王政、カトリック勢力であり、結果として絶対王政が打倒され議会制民主主義が優位、アイルランド再征服となりました。
クロムウェルはアイルランドやスコットランドへ遠征に出向いていたのです。

オランダと戦争

クロムウェルは、1651年イギリスと他国との貿易においてイギリス船、もしくは貿易相手国の船の使用を定めた「航海法の発布」をします。これは、オランダの船の排除目的でした。
イギリスへの輸出入の限定です。
そして、1652年この航海法に反発のオランダとイギリス間で始まったのがオランダ戦争でした。この戦争での勝利はイギリスとなり、オランダに対して「航海法の制定」をみとめさせました。

アイルランド、スコットランドの占領、オランダ戦争での勝利をしたクロムウェルは護国卿就任し、軍事独裁政治を1653年に成すようになります。しかし、共和政とはいってもクロムウェルによる「独裁政治」でした。
国民に対し、夜間外出などを始め娯楽の禁止があり、国民は次第に強い不満を持つようになっていきます。

王政復古/スチャート朝の復活

チャールズ2世

クロムウェルの独裁への不平が強くなったイギリス市民は、国王の復帰を望むようになってきます。
クロムウェルが亡くなり、1658年国王による政治が繰り返されることになりました。それが王政復古です。

共和政期間、フランスへ亡命していたチャールズ2世が1660年にイギリスに帰国し「国王に即位」します。その後、議会を軽視する専制政治、さらにカトリックの復活を宣言しました。
というのもこのチャールズ2世は亡命先でのフランス王ルイ14世の影響を受けていたといわれています。

ルイ14世は「絶対王政の最盛期」を築いた熱心なカトリック信者で知られています。そのためチャールズ2世もフランスと同じような絶対王政を築き上げようとしたのでしょう。

名誉革命

ウィリアム3世

国王に即位したジェームズ2世は、熱心なカトリック教徒からカトリック復活を望み、兄以上の悪政を行います。耐えかねた議会は「国王を追い出せ」とイギリスからの追放を決定します。
議会では、男児のいないジェームズ2世の後継者候補に挙げたのが、長女メアリーでした。
そうして、英雄ともてなされているオランダ総督を王として招くことになります。そして、ジェームズ2世は議会からの追放によってフランスへと亡命します。

妻メアリは、スチュアート朝の女性であり血筋があるので「王位継承」の権利を持っていました。また、オランダ総督であったウィリアム3世は「議会に反発しないだろう」という見方もあったからです。

そして1689年2月に議会は権利の宣言を提出。ウィレムとメアリがこれを承認してウィリアム3世とメアリ2世として即位することになります。

そのご権利宣言は権利の章典となりイギリスでは立憲君主制が成立。また同年に寛容法を制定して、非国教会のプロテスタントの信仰の自由を認めて革命前からの宗教対立を終わらせました。

名誉革命が「名誉」と呼ばれる理由

・国王をイギリスから追放する経路においての争いはなく、犠牲者無し
・一滴の血も見ずに追放したこと

このようなことから素晴らしい革命だと言われています。また「偉大なる革命」「無血革命」と歴史上に残っています。「名誉革命」がどこで終わっているかで流血の有無はちがってくるんですが、多くは1689年の新国王即位で名誉革命終結としていることで「流血はなく」・「名誉」となっているということです。

旧王党派(トーリ)vs地方党(ホイッグ)

国王の専制政治に対して連帯意識をもちのぞむ議会ですが、この後チャールズ2世の弟ジェームズ王位継承をめぐり2つに分裂してしまいます。
せっかく一致団結していた議会だったのですが、「トーリ党」と「ホイッグ党」に分かれてしまうのです。
・「ジェームズ王位継承」賛成派「トーリ党」後の保守党
・「ジェームズ王位継承」反対派「ホイッグ党」後の自由党
に意見が分かれます。
多数決をとりトーリ党の意見が採用となり、チャールズ2世の弟のジェームズは1685年「ジェームズ2世」として即位されました。

まとめ

・名誉革命とは、イギリスで議会が国王を追放し、国王は議会に完全にはむかうことができなくなり、立憲政治が完成した革命
・名誉革命は、一滴の血も流れることなかったことから、別名では「偉大なる革命」「無血革命」とも呼ばれている。
・名誉革命は、立憲君主制の誕生のきっかけとなった革命
イギリスだけでなく、ヨーロッパ全体へ大きな影響を与えました

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