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日本史

富国強兵とはどんな政策?時代背景、意味について詳しく解説

2020年10月9日

突然ですが、あなたは「富国強兵」という言葉について説明できますか?
富国強兵は小学校や中学校で日本史を学習する中で出てくるワードですがその概念やイメージが曖昧になっている方も多くいらっしゃるのではないでしょうか?そこで今回は、富国強兵という言葉が生まれるまでの過程や時代背景、意味、概念についてご紹介しようと思います。

そもそも富国強兵の意味って?

はじめに富国強兵の意味や定義について押さえておきましょう。

富国強兵とは「国を富ませて強い兵を作る」を目標に日本をアメリカやヨーロッパに負けないような強大な国家にするために掲げたスローガンのような言葉です。

富国強兵という言葉自体は春秋戦国時代に中国で生まれた言葉で、日本でも明治時代以前から使われてきた言葉です。しかし、現在では富国強兵という言葉は明治時代初期に唱えられた近代国家を作るための様々な政策を指して言うことが多いです。

富国強兵がスローガンになるまでの経緯と時代背景

富国強兵は教科書では明治期に入って出てくる言葉ですが実は江戸時代末期から幕府や雄藩、尊王攘夷論者を中心に唱えられるようになります。この時点で立場や思想に関係なく、富国強兵の必要性は共通の認識だったようです。背景には、欧米列強の圧力がありました。当時の日本はアヘン戦争での清の敗北や欧米諸国から交易を要求されている状況で、当時の論者達はこれらの圧力に対抗するには、日本の国力を高める必要があると考えたのです。

堀田は欧米列強との貿易を通して、国力、軍備の増強を目指すべきだと考えていました。この考え方を表す言葉として富国強兵が唱えられるようになったのです。ただし、この時点での富国強兵とは、各藩が特産物を欧米に輸出して軍艦・大砲・鉄砲などを輸入することを指していました。肥前藩(佐賀県)の陶器・生蠟・茶、越前藩(福井県)の絹織物・紙、土佐藩の樟脳・紙・鰹節などが代表例です。

つまり、「富国」は「強兵」の手段に過ぎなかったのです。江戸幕府が倒れ、明治新政府が成立した後も「強兵」重視の方針が薩摩藩出身の西郷隆盛や土佐藩出身の板垣退助らを中心に推し進められていきました。しかし、この関係を変える人物が出てきます。それが薩摩藩出身で当時岩倉使節団の副使として欧米を視察していた大久保利通でした。

大久保は欧米を視察した際に見学した近代的な工場に衝撃を受け、日本の工業化を強く主張するようになります。

帰国後、「富国派」の大久保ら岩倉使節団のメンバーと対立した「強兵派」の西郷や板垣らは政府の職を辞め、地元に下野しました。残った大久保は内務省を設立し、官営事業や工業事業を主導することになります。

富国強兵の政策

それでは明治政府が行った富国強兵を目指して行われた代表的な4つの政策について見ていきましょう。

税制改革

江戸時代、幕府の主な収入源は年貢でした。しかし年貢は米価の変動や収穫量によって収入が左右されてしまうため、財源を安定させることが難しい傾向にありました。そこで明治政府は財源を確保するために税収の安定化を目指して税制改革に取り組みました。1871年に田畑の売買を禁じた「田畑永代売買禁止令」の廃止を行い、「地券」という土地の所有権を表した証券を交付して土地所有を認めました。

1873年には「地租改正条例」を公布し、全国で土地の測量調査を実施しました。これらの政策によって土地の面積、収穫量に基づいて地価を算定することが出来ました。政府は土地所有者に地価の3%を地租として金納することを命じました。これによって政府は年貢よりも安定した税収を得られるようになったのです。
一方で政府は地租改正と並行する形で印紙税や地方税なども創設しています。明治末年までには所得税や酒税、煙草税のような現在でも存続している租税も創設されました。

殖産興業

政府は税制改革を通じて確保した税収を基に経済振興政策を推し進めました。この一連の経済振興策を殖産興業と呼びます。

1870年に政府は工部省を設置し、全国に官営の造船所や鉱山、工場を設立して日本の工業化を主導しました。2014年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録された富岡製糸場はその代表例です。政府は欧米からお雇い外国人を招き、官営工場の指導を任せました。
こうして発展した産業を支えるためには輸送網を整備することが必要になってきます。鉄道の敷設を推進し、インフラの整備も進められるようになりました。

学制

1872年、政府はフランスの制度に倣い「学制」を発布します。この時発表された太政官布告では教育の意味について次のように述べています。

メモ

「〔前略〕士官農商百工技芸、及び法律政治天文医療等に至る迄、凡人の営むところの事、学あらざるはなし。人能く其才あるところに応じ、勉励して之に従事し、しかして後、初めて生を治め、産を興し、業を昌にするを得べし〔後略〕」

つまり政府は産業や政治、医療に携わる人材は相応の教育を受けなければならないと述べています。政府が目指す富国強兵のためには高い能力を身に着けた人材を大量に育成することが必要不可欠だったのです。
学制公布当時の構想では、全国を8つの大学区に分け、各大学区を32の中学区、各中学区を210の小学区に分けることを目指していました。この構想に基づき、全国に8つの大学と256の中学校、約5万4000の小学校を開設する計画が示されました。
現場の学校教育では教育を受けた人材を大量に確保するために一斉授業の方式が採られました。この形態は現在まで続くことになります。

徴兵制

1873年、政府は国民の義務として徴兵令を発しました。先述の通り、幕末、明治初期にかけては「強兵」が重視されていました。それまで士族に頼ってきた軍事力を国民全体が担うことで軍備増強に繋げる狙いがありました。
当初、政府はフランスの鎮台制を採用し、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の6箇所に設置された鎮台に徴兵した兵士を配属しました。これはまだ日本国内の政情が不安定であり、軍隊の目的が国内の反乱や暴動を鎮圧することに主眼を置いていたためです。
西南戦争が終結し、士族の反乱や暴動が下火になると政府は師団制を採用し、国外への出兵を念頭に置いた編成へとシフトしていきました。
このように富国強兵をスローガンに改革を推し進めた政府でしたが国民の反発や批判を招くことも少なくありませんでした。
税制改革は実際の収穫高を無視して一方的に地価を設定したことから、農民が猛反発し、地租改正反対一揆が各地で起こりました。これを受けて政府は1877年に地租を3%から2.5%に引き下げています。
1877年の西南戦争にかかった莫大な支出によって財政難に陥った政府は殖産興業によって建設された官営工場や鉱山を民間に払い下げました。しかし、払い下げ先の三井や三菱などの財閥と政府との癒着が問題視され、批判の的になりました。特に1881年の薩摩藩出身で開拓使長官の黒田清隆が同じ薩摩藩出身の五代友厚に格安で払い下げようとしたことが問題となり、当時盛んだった自由民権運動に参加した人々を中心に反発を受けました。
学制は貧しい農民にとって子どもは重要な労働力だったことや女子への教育が重要視されていなかったことから、当初の就学率は低い状態でした。また、学制に反対した「学制反対一揆」が頻発しました。
徴兵制も士族からは特権を奪われたとして激しい反発を受け、士族反乱の一因になりました。また平民からも不満が噴出し、血税一揆などの反乱や暴動が各地で起こりました。
このように富国強兵の名の下に行われた諸改革はこのように国民からの激しい反発を受けたものの次第に国民に受け入れられるようになります。結果としてこれらの諸改革を通じて日本は近代国家としての道を歩むことになります。

まとめ

富国強兵をスローガンとして日本は明治初期に欧米列強と肩を並べる国家になる為に主に「税制改革」「殖産興業」「学制」「徴兵令」の4つの政策が実施されました。これらの諸改革は日本の近代化に大きく寄与しました。

富国強兵とは現在の日本の礎を築いたといえる言葉と言えるのではないでしょうか。

 

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