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世界史

フランス革命ってどんな革命?革命の原因やその影響について解説!

フランス革命と聞くと皆さんは何を思い浮かべますか?

マリー・アントワネットの処刑やナポレオン・ボナパルトを思い浮かべる人が多いかもしれません。

歴史の授業で漠然と習った「フランス革命」について、どのようなものであったのかまとめたので、見ていきましょう。

そもそも、フランス革命とは?

フランス革命とは、18世紀後半にフランスで起きた市民革命です。

この革命によって、王が絶対的権力を有した絶対君主制時代と、それまでの封建的体制が崩壊しました。そしてこの革命によって、資本主義が発展しました。この革命によって、フランスは新たな近代国家体制を築いていくこととなったのです。

フランス革命はなぜ起きたのか

アンシャンレジームを風刺した画(第三身分者が聖職者と貴族を背負う)

フランス革命の起因は簡単にまとめて3つあります。

ポイント

啓蒙思想の拡がり

不平等な階級制度

財政赤字

です。

この時代のヨーロッパでは、啓蒙思想が広がりを見せており、今までの先入観を見直して、理性と知識を持って合理的に考えようと各国が動きはじめました。

各国が近代化を進める中、フランスでは絶対王政が続いており、不平等な階級制度がありました。この階級制度はピラミッド型をしており、国王は頂点に君臨していました。

聖職者が第一身分、貴族が第二身分として国王の後に続き、特権階級として認められていました。

しかし、この特権階級の数は国民の二割にしか満たなかったにも関わらず、国土の大部分を領有する領主として第三身分の平民を支配していました。また特権階級は税が免除されていましたが、フランス王室の財政赤字により、王室は歳入を増やすために国民への徴税を強めました。特権階級の者は税免除を受けていたため贅沢な暮らしをしていましたが、その一方で平民のみが重い税が課され、働き続けなくてはいけなかったのです。

こうして、平民の不満は積み重なっていきました。そして啓蒙思想により、平民は絶対王政そのものを見直すことになり、革命の原動力となりました。

なぜ財政赤字になったのか

フランス革命の一因として有名なのが、浪費家として今でも語り継がれているマリー・アントワネットですが、本来ならばどれだけマリー・アントワネットが浪費したところで国の財政が傾くほどのものではなかったはずなのです。

では、なぜ財政赤字になったのでしょうか

もっとも大きな原因は、度重なる戦争です。

メモ

フランス革命前の主な戦争

ルイ14世…ネーデルラント継承戦争、仏蘭戦争、大同盟戦争、スペイン継承戦争

ルイ15世…ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争、

ルイ16世…アメリカ独立戦争

フランスは対外戦争によって領土を拡大していきました。しかし、戦争には莫大な軍事費がかかってしまうため、ルイ14世とルイ15世の代ですでに累積債務がかさんだ状態でした。そんななか、ルイ16世が敵国イギリスとの代理戦争としてアメリカ独立戦争を支援したために、破産に近づきました。

革命前夜

三部会の召集

前述の通り、フランスは対外戦争などにより莫大な財政赤字を抱えていました。

そこで、ルイ16世は特権階級に課税させるために1789年の5月に三部会を開き、承認を得ようとしました。そこでネッケル(財務長官)は、赤字について報告しました。

この三部会は第一、第二身分各300名、第三身分600名の議員で開催されました。しかし、会議は議決方法を巡って対立し、中々進みませんでした。

これに第三身分は愛想をつかしました。彼らは国民議会を発足させ、宮殿の球戯場において、憲法が制定されるまでは解散しないことを誓いました。

この宣誓が行われると、ルイ16世はネッケルを罷免しました。

しかし、ネッケルの罷免が民衆の国王への不満を爆発させ、フランス革命の始まりとされるバスティーユ襲撃事件へと繋がるのです。

バスティーユ襲撃事件

1789年7月14日、バスティーユ牢獄に弾薬と火薬があるという噂を聞き、民衆は押し掛けました。

民衆は火薬などの受け渡しを何度か交渉しましたが、要塞司令官が応じることはありませんでした。そして、守備隊が彼らに発砲し、それに激高した民衆が攻撃を開始しました。

その後、守備隊が降伏し、バスティーユ牢獄の囚人7人が解放されました。もちろん弾薬・火薬が奪われ、司令官は首をはねられました。

この事件が各地に伝えられると、フランス全国で暴動が起き、フランス革命が始まりました。

また、このバスティーユ襲撃事件を受けて、1789年7月16日にネッケルは再び財政長官に就任されますが、財政はすでに立て直しが不可能な状態になっていたため、翌年には辞職をしました。

ヴァレンヌ逃亡事件

1791年に穏健派のミラボーが病死し、革命の急進化に国王一家は不安を持ちました。

そして6月20日夜に、国王一家はパリからオーストリアへの亡命をはかりました。しかし、国境近くのヴァレンヌで国王一家の亡命が発覚し、パリに連れ戻されました。この事件が公になると、国民は失望し、国王を支持する者はいなくなりました。

革命戦争

この事件は、マリー・アントワネットの兄であるオーストリア皇帝レオポルト2世を刺激し、オーストリアはプロイセンを誘い、フランス王家を支持するという宣言をしました。そして、ルイ16世の地位を回復させなければ、フランスに対して開戦をすると脅しました。

1792年4月、「我々は自由のために戦う用意がある」としてオーストリアに宣戦布告した。しかし、戦況はフランスが劣勢であり、オーストリア・プロイセン連合軍が国内に侵攻してきます。

そして、王政復古のクーデターを企図していると聞いた民衆は、8月10日にテュイルリー宮殿を襲いました。国王一家は捕えられ、タンプル塔に幽閉されました。

12月、ルイ16世の裁判が始まりました。彼は封建制度の象徴として国民への敵対行為の罪で有罪となり、死刑が宣告されました。

1793年1月21日、革命広場においてルイ16世はギロチンで処刑されました。この処刑は他国に脅威をもたらし、各国は警戒を深めました。

この処刑を受けて、イギリスはヨーロッパ諸国に呼び掛けて対仏大同盟が結成しました。フランスはヨーロッパ中を敵にまわしたのです。マリー・アントワネットは、コンシェルジュリーの独房に移されました。

10月14日、マリー・アントワネットの裁判が始まりました。しかし、裁判をしたところで結果は始めから決まっていました。午前4時に彼女は死刑を宣告され、彼女もまたギロチンで処刑されました。

フランス革命のその後

国内の混乱は中々収まりませんでした。次第に、国民は社会の安定を願うようになりました。国内の秩序を回復できるのは軍隊しか選択肢がありませんでした。

このような混乱のときに、登場したのがナポレオン・ボナパルトでした。ナポレオンは、皇帝ナポレオン1世になると軍事独裁政治を始めます。

ナポレオン1世は、欧州全土へと領土拡大を目指しますが、ロシア遠征が失敗に終わり、失脚します。彼は再起を目指し、イギリスやプロイセンの連合軍との間にワーテルローの戦いを起こします。しかし結果は破れてしまい、彼はセントヘレナ島に流されます。

この後、フランスは何度も市民革命を重ね、現代の国家へと進んで行きます。

まとめ

この革命で、多くの血と涙が流れました。

現代でも、フランスではこのフランス革命は国民にとって非常に重要な歴史となっています。「自由・平等・友愛」というフランス国家の理念は、このフランス革命時のスローガンとして掲げられたものであり、今日でもフランス人の在り方として刻まれ続けてるのです。

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