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世界史

普仏戦争ってどんな戦争?経緯や原因、その後についてわかりやすく解説!

2020年11月3日

普仏戦争は1870年代に起こったプロイセン王国とフランスによる戦争で、ドイツ統一につながった世界史でもとても重要な戦争です。

そんな普仏戦争ですがあまり詳しく説明されないことが多くどんな歴史的な意義があるのかわからないという方も多いのではないでしょうか。

今回はそんな普仏戦争の経緯や原因、勝敗について分かりやすく解説していきます。

普仏戦争とは?

普仏戦争とは、1870年に起こったプロイセン(正確には北ドイツ連邦)とフランスの戦争です。プロイセン以外のドイツ諸国も参戦したため独仏戦争と呼ばれる場合もあります。

これはビスマルク率いるプロイセンに対して、スペイン王位継承問題を発端にフランスのナポレオン3世が1870年7月に宣戦布告して始まった戦争で、結果としてプロイセンの大勝利に終わりました。

プロイセンとフランスの圧倒的な軍事力の差によって、当初予想されていたのよりも早く戦争は終結し、1871年2月には休戦条約が結ばれ、同年5月にフランクフルト講和条約が締結されます。

その結果、フランスはドイツ帝国にアルザス・ロレーヌの割譲し、50億フランの賠償金を支払うことになりました。

 なぜドイツ統一のためには普仏戦争が必要だったのか?

普仏戦争開始時のドイツ。赤い範囲内が北ドイツ連邦。水色の部分がプロイセン王国の領土(Wikipediaより引用)

そもそも、ドイツは一つのまとまった国家ではありませんでした。ドイツ内にはたくさんの国が存在し、それぞれが独立した存在でした。

しかしそんな中、一つ一つの国を超えたまとまりである「ドイツ」を念頭に置いた、ドイツ・ナショナリズムが高まりつつありました。この高まりを引き起こす原因となったのは、フランスのナポレオンでした。ナポレオンの侵略によって存在を脅かされたドイツの人々は、自らの帰属する「ドイツ民族」というアイデンティティを確立しようという方向へと向かっていきます。

フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』で国民意識の覚醒を呼びかけたことはもちろん、『グリム童話』としてよく知られているグリム兄弟による民話の収集も、このナショナリズムの高まりの中で行われたものです。

つまり、ナポレオン戦争の時代からドイツ諸国内では大きなまとまりである「ドイツ」に対する意識が高まっており、ドイツ諸国がさらに強固に「ドイツ」としてまとまるためには、ナショナリズムの高まりのそもそものきっかけであるフランスを共通の外敵とする必要があったのです。

1834年に発足したドイツ関税同盟をさらに拡大したプロイセンは、オーストリアを除いたドイツの経済的な統一を推し進めていました。そして1862年にプロイセンの首相となったビスマルクは、「鉄血政策」という富国強兵政策によってその統一の主導権を握っていました。

1864年にはデンマーク戦争でオーストリアと共に戦い、シュレスヴィヒ・ホルシュタインを占領し、プロイセンはシュレスヴィヒを行政下に置きました。

しかし、ドイツの統一をめぐる大ドイツ主義、小ドイツ主義の対立を背景に、シュレスヴィヒ・ホルシュタインの帰属問題をきっかけとして、ビスマルクはオーストリアを挑発し、1866年、普墺戦争を起こします。

七週間戦争とも呼ばれるこの戦争で、プロイセンは圧勝し、結果、ドイツ連邦は解体されることとなり、オーストリアとその味方である南ドイツ諸国を除いた、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦が成立することとなりました。

そこでビスマルクは、ナポレオンの甥であるナポレオン3世を「ドイツ」の共通敵に仕立て上げ、南ドイツ諸国を含めたドイツ統一を成し遂げるために、戦争へ持ち込むことをもくろんだのです。

戦争のきっかけ「スペイン王位継承問題」とは?

ヴィルヘルム1世から言質を得ようとするフランス大使

スペインでは、1868年のスペイン九月革命によって女王イサベル2世がフランスへ亡命して空位になっていました。

そこで、プロイセンのビスマルクはプロイセン王家であるホーエンツォレルン家の分家、ジグマリンゲン家の王子であるレオポルトを説得し、スペインの了承も得た上で、レオポルトが王位継承者として決定されていました。しかし、この決定にナポレオン3世は猛反対します。

というのも、フランスはスペインとプロイセンの狭間にあるからです。スペインにプロイセンの息のかかった王が誕生すれば、フランスは両国に挟まれてしまうことになり、とても不利な状況に陥ってしまう可能性があります。そこで、ナポレオン3世はプロイセン王であるヴィルヘルム1世に働きかけ、1870年に王位継承の決定は取り消されました。

さらに同年7月、フランスは、プロイセンに今後一切スペイン王位継承に干渉しないことを約束させようと、温泉地エムスで静養中のヴィルヘルム1世のもとへ大使を派遣します。ヴィルヘルム1世はこれを非礼な要求だとして拒否しましたが、そのいきさつを伝える電報を受け取ったビスマルクは「フランス大使が非礼にもプロイセン王に将来にわたる立候補辞退を強要し、立腹したヴィルヘルム1世は断固拒否し大使を追い返した」という筋書きで情報操作を行い、これを公表しました。

この出来事は「エムス電報事件」と呼ばれており、これをきっかけにプロイセン内ではヴィルヘルム1世に非礼な要求をしたフランス大使に対する反フランス感情が高まり、対するフランス内でもヴィルヘルム1世がフランス大使を侮辱したと信じた民衆による反プロイセン感情が高まったため、開戦を求める世論に押され、ナポレオン3世はプロイセンに宣戦布告する運びとなったのです。

この一連の流れの中で、ビスマルクはあえてフランスを挑発し、対立感情を煽って普仏戦争を起こそうとしました。というのも、ドイツ統一を実現するためには普仏戦争が必要だと考えていたからです。

普仏戦争の動き

プロイセン軍とフランス軍の配置図

近代化されたプロイセン軍

ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ) 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争・普墺戦争・普仏戦争を勝利に導き、近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる

こうして始まった普仏戦争ですが、プロイセンはドイツ統一を念頭に置いており、対フランスの準備を前々から行っていました。

プロイセンは大モルトケ将軍率いる参謀本部といった作戦組織が存在していました。ここで作戦計画を練っていましたが、戦争が起こる3年前の1867年には完成していたというのですから驚きです。

さらにはこの戦争を予測していたプロイセンは最新技術である電信を配備して通信を強化したりら普墺戦争の後にフランスへ向けて鉄道線路を6本引いて戦争が始まったら即座に兵の配備ができるようにしていたのです。

また、スパイ活動も念入りに行なっており、将来戦闘が起こりそうな地域に観光客にまぎれこませて地図をあらかじめ作っておくなどこれでもかというぐらい念入りに行なっていました。

また、兵力の差もついており、プロイセン率いる北ドイツ連邦加盟の領邦諸国は、プロイセンが先に宣戦布告された場合には協力するとの条約に基づき参戦することになっていました。

そのため兵の数はプロイセンが優位であり、プロイセン軍は総数50万。対するフランス軍は植民地のアルジェリアと保護下においていたローマに駐屯する部隊を入れても35万人、戦争に直接投入できるいわゆる実働部隊はわずかに25万人と2倍の差が生まれていたのです。

セダンの戦い・メス攻囲戦

ナポレオン三世とビスマルク

初戦では連戦連勝でザールブリュッケンを占拠したフランス軍ですが、軍の兵力が分散した事に加えて、まだ兵の配備が整っていないと油断していた国境警備の軍隊が手薄状態になっています。ここをチャンスと思ったプロイセン軍はヴィザンブールの街ごと占拠されてしまいました。これがヴィサンブールの戦いです。

ヴィサンブールの戦いで混乱し始めたフランス軍。巻き返しを図りますが足並みの揃わなさが原因で徐々に押され始めていくことになります。

この敗戦によって押され始めていたフランス軍ですが、フランスの敗北が決定的になるのがメス包囲戦とセダンの戦いでした。

フランス軍は戦闘での敗北によってメスという都市への退却。そこには要塞があり、軍隊はその要塞に籠城してプロイセンへの反撃を行おうとしたのですが、これをみたプロイセン軍がメス要塞を約15万人の兵力に包囲。フランス軍は身動きが取れなくなってしまいます。これがメス攻囲戦です。

ナポレオン3世は包囲された軍を救うために、ありったけの残りの兵力を集めてメスの包囲を解こうとしますが、度重なる敗北によってこの頃にはフランス軍は兵士の士気も低下していたのです。

それでも残った兵や部隊を集めて要塞の奪還を狙いますが、ナポレオン3世自らメスの包囲を解こうと動いていることはとっくにプロイセン軍にバレており、8月30日にフランス軍はプロイセン軍に急襲されてセダンという街に退却しました。

さらにらセダンを包囲する形でプロイセン軍の総攻撃が始まり、フランス軍に大打撃を与えます。この時のフランス側の死者と捕虜は3万8千人近くに昇ったと言われています。

翌日の9月2日に勝ち目が無いと悟ったナポレオン3世は降伏し、捕虜となりました。こうして皇帝が捕虜になったフランスの敗北が決定的となったのです。

フランクフルト講和条約締結

ナポレオン三世が捕虜として捕らえられたことがパリに伝わると、フランス国内ではクーデターが起こり、フランス第二帝政は廃止されて新しい国防政府が作られます。、1870年9月19日から1871年1月28日までパリ攻囲戦が行われました。これにパリ市民が粘り強い抵抗をしますがもはやプロイセン軍を止めるだけの戦力はなく結果は全て惨敗。

そしてプロイセン軍はヴェルサイユ宮殿を占領し鏡の間にてヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式を行い、ビスマルクの悲願であるドイツ帝国を成立させました。そして、1871年1月18日。フランスは休戦交渉を行って1871年5月10日にドイツとフランスはフランクフルト講和条約を結んで普仏戦争が終結。

ドイツはフランスに対してアルザス=ロレーヌ地方をドイツの監督下に置くことと、賠償金50億フランを3年以内に支払うことを認めさせました。

普仏戦争の結果何が残されたのか?

ドイツ帝国の国旗

フランスの封じ込め

この敗北によってフランスはドイツ帝国にアルザス・ロレーヌの割譲と、50億フランもの多額の賠償金を支払うことになり、この独仏間の確執は第一次世界大戦から第二次世界大戦に至るまでその確執を取り除いていく姿勢という意味では第二次世界大戦後にまで、影響を残し続けることになります。

ビスマルクはこれ程の確執を残して、フランスが再び力をつけてしまってはドイツ帝国の安定を脅かすことになるということを理解していたので、オーストリア・イタリアとの三国同盟やロシアとの再保障条約を締結し、フランスを孤立させるための、いわゆる「ビスマルク体制(ビスマルク外交)」を推進しました。

しかし新しく皇帝ヴィルヘルム2世が即位すると、ビスマルクは皇帝と対立してしまい、辞職することになります。ヴィルヘルム2世は「世界政策」という対外膨張政策を展開したため、ビスマルクが構築したフランス封じ込めの国際的バランスを崩すこととなってしまいました。

フランスコミューンと第三共和政

ドイツ帝国が成立した一方で、フランスではプロイセンと臨時政府による仮講和条約に対して、パリ市民が蜂起してパリ=コミューンを宣言しました。

しかしこれを臨時政府とプロイセンが鎮圧し、1875年に共和国憲法が制定されると、フランス第三共和政が確立されました。

イタリア統一の促進

そしてもう一つ普仏戦争によってもたらされた国際的な変化といえば、イタリアの統一です。フランスはイタリア統一戦争からローマ教皇を守るという名目でローマ教皇領に軍を駐留させていましたが、普仏戦争の敗北を以て撤退することとなりました。

すると、イタリア王国がヴァチカンを除くそのすべての領土を占領。ローマを首都としたイタリアの統一が成りました。

まとめ

普仏戦争は、プロイセンがドイツ統一をもくろんで起こした戦争であり、対するフランスがプロイセンの力を抑え込もうとして起こした戦争であると言えます。

また、戦中にフランス第二帝政の崩壊とドイツ帝国の成立、戦後にパリ=コミューンの鎮圧と第三共和政の確立、さらにはイタリアの統一という結果を生んでおり、ドイツやイタリアなどの国家の成立、フランスにおいては共和政の復活に重要な役割を果たしました。

そしてこの戦争で独仏間に深く明確に刻まれた対立が、第一次世界大戦や第二次世界大戦へと影響を及ぼしていくという点で、普仏戦争は歴史の重要なポイント、転換点として抑えておくべき戦争なのではないでしょうか。

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