スポンサーリンク

世界史

東欧革命ってどんな革命?発生原因と影響についてわかりやすく解説!

2020年9月12日

1989年は世界史と日本史の中で特筆するべき年です。

日本では昭和天皇が崩御なされて平成時代に突入。さらには消費税も導入されました。

一方で、世界でもこの年は大きな転換点を迎えていました。その要因となったのが、ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキアなどで立て続けに共産主義政権が崩壊して民主化の政権となったいわゆる東欧革命による物だったのです。

今回はそんな世界を大きく動かした東欧革命について見ていきましょう。

東欧革命の概要

東欧革命とは1989年に連続的に東欧で起こった革命です。これにより市場主義経済や議会制度などが東欧の諸国に導入されました。

またこれにより共産主義政権が倒されることとなりましたが、経緯は各国によってかなり異なります。

この東欧革命によって第二次世界大戦後に誕生したソ連の衛星国が軒並み崩壊。その二年後にはソ連自身も崩壊することになりました。

東欧革命が起きた理由

ソ連では1985年に就任したミハイル・ゴルバチョフが停滞していたソ連を立て直すためにペレストロイカという改革を行っていきます。

主な目的はソ連国内の政治・経済の硬直を打開するために開始された政治改革であったのですが、このペレストロイカはこれまでソ連が主導していた外交体制を大きく転換していくことになり、冷戦に基づいた旧来の外交政策を緊張緩和の方向に転換する事(新思考外交)を展開していくことになります。

この新思考外交はアフガニスタンから撤退、東欧の民主化とドイツ統一の容認、核兵器削減の進展を掲げており、これまでのブレジネフ書記長が宣言した制限主権論を否定することになります。

そして東欧革命が起こる前年の1988年にソ連が新ベオグラード宣言を出したことが革命が起こる大きな要因となりました。

ポーランドの場合

ポーランド人民共和国ではもともと民主化運動がたびたび起こっていましたが、とくにレフ・ヴァウェンサ率いる非共産党系の自由主義勢力である独立自主管理労働組合「連帯」の活動が活発化していました。独立自主管理労働組合「連帯」は工場を自分たちで民主的に管理するという自由な生産体制を作っていくものでしたが、この考えは社会主義にな欠かせない計画経済を否定することにつながるためたびたび弾圧され反政府運動を潰す為に戒厳令を導入。連帯自体も1981年に解散させられていました。

しかし、ソ連のペレストロイカによってポーランドにも自由に風が吹き荒れることになり、政府は仕方なく1989年2月6日から4月5日にかけて体制側と反体制側の代表者が集まって円卓会議を開催。6月18日に一部不完全な自由選挙を初めて行うことになりました。

この1989年6月18日の選挙により連帯が地滑り的勝利を勝ち取り、東欧諸国では初の非共産党政権が発足しました。そしてポーランド統一労働者党ならびにポーランド人民共和国は解体。民主主義にのっとったポーランド共和国が成立することになりました。

ハンガリーの場合

ピクニック開催地であったことを示すモニュメント

ハンガリーでは社会主義労働者党が一党独裁制を敷いていましたが、カーダール・ヤーノシュ書記長が穏健路線だったこともあり比較的緩やかな統治でした。西側諸国からの資本導入を推進していたこともあり、1980年代にはすでに経済の自由化がされていました。1988年に経済政策の失敗によってカーダールが引退に追い込まれると、社会主義労働者党は急進改革派が実権を握ることとなりました。1989年4月には民主集中制が放棄され、党内も自由化が進められていました。

1989年5月、ハンガリーはオーストリア国境の間にある鉄条線を撤去しました。これは財政的な問題であるとハンガリーは主張しているが、鉄のカーテンに風穴を開けるためであることは誰の目にも明らかでした。6月には複数政党制を導入して一党独裁制に幕を閉じました。

夏になってバカンスのシーズンになると、東ドイツから大量の訪問客が訪れました。ハンガリーは温泉や湖などのリゾート地が多くあり、東ドイツからバカンスに来るものも少なくないが、東ドイツからの訪問者は引っ越し用の荷物を持っているなど明らかに旅行には見えませんでした。彼らは東ドイツからの亡命を目指し、ハンガリーにバカンスという名目で滞在を続けました。しかし自由にオーストリアへ移動できたのはハンガリー国民のみであり、東ドイツ国民はオーストリアに入国することは出来ませんでした。

そんな中オットー・ファン・ハプスブルクの提案によってハンガリーとオーストリアの国境沿いでピクニックイベントが行われることになりました。それを聞いた改革派のリーダーのポシュガイはこれに乗じて東ドイツ国民をオーストリアに逃がす計画を立てました。この計画はハンガリー政府公認で行われ、式典の間国境の警備を意図的に緩くするというものです。この計画によって661人が亡命へ成功し、その後も亡命する東ドイツ国民は後を絶ちませんでした。
10月ハンガリーは憲法を改正して民主政治や市場経済が名実ともに認められました。また社会主義者労働党はハンガリー社会党へ改名し、民主社会主義を志向する政治集団へと生まれ変わりました。

東ドイツの場合

東ドイツは分断国家であり、他の東欧諸国と異なりイデオロギーのみが国家の主要なアイデンティティだったため、民主化の動きについては厳しく取り締まっていました。ホーネッカー書記長は旧来の方針の維持に固執しており、ソ連から呆れられるほどだった。ホーネッカーは自国民がハンガリー経由で続々と亡命をしていても特に対策を打つことはなく、幹部の間でも不満は高まっていました。そしてついに1989年10月幹部はクーデターを起こし、ホーネッカーは失脚しました。
ホーネッカーの後を継いで書記長になったエゴン・クレンツは11月9日、翌日から旅行に対しての出国手続きを緩和することを決定しました。この政権の報道官を務めていたギュンダー・シャボンスキーはこれを決定したどの会議にも出席しておらず、ただ渡された草案を読み上げるだけでした。シャボンスキーは「翌日から旅行手続きの出国手続きを緩和する」というところを、「ベルリンの壁も含めて、全ての国境から自由に出国が出来る」と誤って発表してしまいます。

さらに記者から「いつこの政令は適用されるのか」と質問され、発行期限を教えられなかったシャボンスキーは政令の「直ちに」「遅延なく」という言葉から判断して、「私の認識では『直ちに、遅滞なく』です」と発表しました。

本当は政令が適応されるのは翌日からであり、政府はそれまでに対策を練っておくつもりでした。これを聞いた東ドイツ国民はベルリンの壁へ押し寄せました。連日の政変により兵士に対する恐怖心が消えていた東ドイツ国民は検問所の国境警備隊は押し寄せ、門を開放するように詰め寄りました。

国境警備隊もシャボンスキーの報道を聞いていましたが、上層部からの指示がなかったのでどうするのかを話し合っていました。西ベルリンからも国民が押し寄せていき、遂に解放しました。11月9日の深夜のことでした。翌朝、どこからともなく持ちだされたツルハシで壁は壊されてゆき、その壁は販売されたり、アスファルトに加工されたりしました。これを受け社会主義統一党は12月に一党独裁制を放棄し、翌年のドイツ再統一につながります。

ルーマニアの場合

ハンガリーや東ドイツでは比較的穏健に政権の移譲が進んだのに対し、ルーマニアではニコラエ・チャウシェスク大統領が国内の改革を完全に否定していたため、治安部隊と市民の間で武力衝突が起き、多くの犠牲者を出しました。
12月21日、相次ぐ東欧での民主化に触圧されたルーマニア国民は独裁反対デモを起こしました。これを恐れたチャウシェクスは国防相のワシーリ・ミリャに軍隊を動員して武力鎮圧するように命令したが、ミリャはこれを拒否しました。ミリャは大統領と国民で板挟みになって拳銃自殺をしました。国営放送はミリャを自殺と報じましたが、国民はおろか軍隊すらもそれを信じず、ミリャはチャウシェスク大統領によって暗殺されたと信じ、軍隊は反体制派に寝返りました。
それを聞いたチャウシェスクはなおも抵抗を続けようとしたが、反体制派は官邸へと流れ込み、チャウシェクスが捕まるのは時間の問題かと思われました。チャウシェクスは官邸の屋上からヘリコプターで逃亡を図ろうとしたが、ヘリコプターのパイロットの裏切りにあい陸路で逃げることを余儀なくされました。

その後ニコラエ・チャウシェスク大統領は通りがかった車を乗っ取ってなおも逃亡を目指すも、最終的に軍隊に逮捕され引き渡されることとなりました。12月24日夜、チャウシェクス派の秘密警察はチャウチェクスが逮捕されている軍事基地を突き止め、総攻撃を仕掛けました。しかし反体制派の軍隊の布陣は強力でこれを破ることは出来ませんでした。反体制派は本来チャウシェスクをブカレストに連行して通常の裁判で裁く予定でしたが、この事態を重く見て軍事基地で一刻も早く裁くことを決定しました。12月25日、反体制派によって軍事裁判が行われ、大量虐殺と不正蓄財の罪で死刑判決を受け、刑は即日執行されました。チャウシェスクが処刑場へ連行しようとする軍人を口汚く罵っている映像が記録されています。
その後反体制派と共産党内のチャウシェスクによって新政権が築かれ、翌年5月の普通選挙では反体制派と反チャウシェクス派が衣替えした救国戦線が政権を握ることとなりました。

東欧革命の影響

東欧革命はベルリンの壁の崩壊によるベルリン問題の解決、チェコスロバキアにおける民主化問題、さらには冷戦そのものを終結に導く大きな転換点となりました。事実、革命のさなかにの1989年12月3日にはマルタにおいてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュとミハイル・ゴルバチョフがマルタ会談を行い冷戦の終結が宣言されることになりました。

また、国際体制も大きく変わりNATOと張り合っていたワルシャワ条約機構が1991年に廃止。同年の12月25日にはソビエト連邦が崩壊することになります。

そして時代はグローバリズム、アメリカ一強の時代に突入していくことになるのでした。

まとめ

この東欧革命の最大の意義は終わることのないと信じられていた社会主義政権が民衆の力によって短期間で倒されたことによって、これまでの資本主義vs社会主義といった冷戦体制が崩壊して当時の社会主義政権は大幅に弱体化しだことだとされています。

またシャボンスキーの勘違いやミリャの自殺を民衆や軍隊が暗殺と勘違いを勝手に決めつけたことから政権の崩壊が始まっていき、いつのまにか国が転覆していたというのも特筆すべき点だと挙げられています。

1989年。それは東ヨーロッパの歓喜や憎しみが混ざり合っていた年だったのです。

スポンサーリンク

こちらもおすすめ!

1

ニュースや新聞で世界情勢の話題になったとき、「国際連合」というワードを聞いたことはありませんか?最近でいうと昨年、環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんが各国首脳の前でスピーチして話題になりました。中学 ...

2

1914年から1918年にかけてヨーロッパでは第一次世界大戦が繰り広げられていました。 そしてこの戦争はヨーロッパの体制を根本から崩すこととなり、現在にもつながる影響も残すことになったのです。  今回 ...

3

世界の政治体制は、それぞれの国によって違っています。同じ民主主義国家でも、国によって大統領制をとっている国、議員内閣制の国と、政治体制の採用が違っているのです。 日本は、御存じの通り、議院内閣制を採用 ...

-世界史
-, , , ,

© 2021 レキシデセカイ Powered by AFFINGER5