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日本史

第二次長州征伐ってどんな戦争?原因、流れ、結果をわかりやすく解説!

黒船来航、桜田門外の変など江戸幕府が滅ぶことになった原因は沢山ありますがその中でも特に江戸幕府の崩壊を決定づけたのが第二次長州征伐でした。

今回はそんな歴史の大きなターニングポイントとなった、第二次長州征伐についてわかりやすく解説していきます。

第二次長州征伐とは

第二次長州征伐とは、江戸時代末期の1866年、幕府が長州藩(現在の山口県周辺)に侵攻した戦いです。

しかし、幕府は長州藩に対して圧倒的な数の兵士を動員したにも関わらず、成果を上げられないどころか、返り討ちにあって敗北を喫します。

江戸幕府崩壊の原因はたくさんありますが、その中でも、この敗北は全国に「幕府の武力は大したことない」と知らしめてしまった、決定的な事件となったのです。

第二次長州征伐の背景

尊王攘夷の長州、禁門の変で敗れる

禁門の変の様子

黒船来航によって、鎖国体制が崩壊した日本には、これからの日本の行く末について、様々な議論が思想が登場しました。

その中でも長州藩は「尊王攘夷」とよばれる「天皇中心の政治を取り戻して、外国からの圧力をはねのけてしまおう」という、過激な主張を持っていました。長州藩は、開国に応じた幕府に、もはや日本を動かす力はないと考え、反幕府を唱えます。

これに対して、幕府は、朝廷のお膝元である京都から長州などの尊王攘夷の思想を持つ人々を追い出そうと画策します。もちろん長州藩はこれに反発して、京都へと兵を進めますが、朝廷の援護は得られず、逆に幕府と朝廷が手を結ぶことを主張する「公武合体派」の薩摩藩・会津藩に惨敗してしまいます。

これを禁門の変(蛤御門の変)といいます。

第一次長州征伐

京都での禁門の変に敗れた長州藩は、厳しい立ち位置に立たされます。
戦いの最中、御所への発砲というタブーを犯してしまった長州は、幕府だけでなく朝廷をも敵に回してしまったのです。こうして、幕府軍が、長州へと攻め入ろうとしたのが第一次長州征伐です。

ところが、長州を攻める予定だった幕府軍の側で、ある変化が起こっていました。

幕府軍の参謀を務めていた、薩摩藩の西郷隆盛が長州を武力で攻めることに反対し始めたのです。西郷は、幕府の重臣であった勝海舟に「日本国内で戦争を起こすことは、外国に対して隙を見せる」「幕府に大きな戦争を行う力は残っていない」と聞かされ、長州と幕府との戦いは話し合いで解決するべきだと主張します。

この主張は幕府方に受け入れられ、第一次長州征伐は互いの軍が衝突することなく、会合によって長州藩の処分が決められることになりました。

長州側も、十倍以上の兵力差がある、幕府軍と一戦交えることは不可能だと判断し、この交渉に応じることになりました。

長州藩の改革と薩長同盟

尊王攘夷派弾圧と高杉晋作のクーデター

奇兵隊

幕府が長州征伐を戦争ではなく、話し合いで解決する方向に舵を切ったとはいえ、長州藩はいまだに幕府にいつ攻められてもおかしくない状態です。
そこで、長州藩の上層部は、幕府の敵となる尊王攘夷派を弾圧し、幕府に対して敵意のない保守派が藩政を握ろうとします。

ところが、一旦はこの弾圧に屈し、藩の外へと逃亡することになった尊王攘夷派ですが、すぐに反撃を開始します。

中でも、身分にとらわれない軍隊「奇兵隊」を作り、藩の軍事的な改革に尽力してきた高杉晋作は、自身の作った武士階級以外の軍隊を集めて、藩内の重要拠点を奇襲しました。この高杉のクーデターに参加した人物の中には、後の初代総理大臣・伊藤博文や、日本の近代陸軍の整備に貢献した山県有朋などもいました。

こうした、後の明治政府を支える若者のクーデターにより、長州藩は、再び幕府と対立する立場に立つこととなったのです。

 薩長同盟締結

長州藩で、反幕府派が藩政を握るころ、もう一つの藩でも大きな方向転換が行われようとしていました。
それが、これまでとことん長州藩と対立してきた薩摩藩です。

第一次長州征伐の折に、勝海舟から「幕府に力はない」と聞かされた西郷隆盛を中心に、次第に幕府を倒すことを考えるようになってきたのです。
こうして、薩摩藩が反幕府派に寝返ろうとしていた時、ある人物から、「商談」が持ち掛けられたのです。

その人物とは、土佐藩を脱藩し、長崎で日本初とも言われる会社「亀山社中」を立ち上げていた坂本龍馬でした。

坂本は「我が社を通して、長州に西洋の武器を渡してくれませんか? その代わり、長州からは米を持ってきます」と持ち掛けます。
そして、薩摩藩から仕入れた西洋の武器を、幕府からにらまれていて、直接武器を集められない長州藩に売る、というのです。

坂本の会社を通して、仇敵同士が武器と食料を交換する、という一見いびつな「商談」ですが、実は長州藩と薩摩藩には意外な共通点がありました。

長州も薩摩も、以前に外国と武力衝突を起こしています。その時に、外国の兵器の強さを知り、今の幕府では対抗できない、と考えるようになっていたのです。
こうして、坂本龍馬の仲介によって、長州藩と薩摩藩は、一転して手を取り合って、足りない物資を交換し合う、同盟となります。この同盟を「薩長同盟」といいます。

こうして秘密裏に結ばれた同盟によって、長州には大量の西洋の武器が流れ込むようになったのです。

影の英雄・大村益次郎

大村益次郎

高杉晋作のクーデターと薩長同盟のおかげで確保できた優秀な武器のおかげで、長州藩は、再び幕府と対決する体制を整えつつありました。
そんな中、長州の軍隊をさらに強くするために、大村益次郎という人物が、藩の軍事改革のために抜擢されました。

彼は、西洋の学問や兵法に精通しており、最新式の兵器の威力を最大限発揮するための軍隊を作り上げるために、西洋式の戦術や訓練を、奇兵隊を始めとした長州の軍隊に取り入れます。

当時の日本の戦い方は、戦国時代からあまり変わっていませんでした。

指揮官を中心に、密集した陣形を組み、その状態で槍や鉄砲を使って高い密度の攻撃を繰り出す、というものでした。
しかし、これは、刀や槍といった接近戦専門の武器や、装填の遅い旧式の鉄砲を使うときの戦い方です。西洋ではすでに、高速で装填できる銃や大砲が普及し、こういった密集陣形は集中攻撃を浴びて一網打尽にされることが分かってきていました。

そうした西洋で生み出されたのが、「散兵戦術」といわれるもので、密集するのではなく、兵士たちの間隔を広くとり、敵の銃撃や大砲で、いっぺんにやられないように対策したのです。
ところが、この散兵戦術は、一朝一夕で出来るものではありません。
これまでは、密集陣形だったので、指揮官の指示はそれほど苦労せずに、隊全体に行き届いていました。

しかし、兵士同士の間隔が広がる散兵戦術では、同じ人数を指揮するときでも兵士全体に指示をいきわたらせるのは非常に難しくなります。

大村は、こうした西洋の新たな戦術を取り入れるとともに、兵士一人一人が隊長の細かい指示を受けずとも、戦争を行えるような「考える力」を、兵士たちに広めていきます。

最新式の兵器に加えて、大村の指導による兵器に合わせた戦術の進化。長州の軍事力は、数にものを言わせるだけの幕府軍とは、全く違うものになっていったのです。

第二次長州征伐の推移

交渉決裂

さて、長州藩と幕府は、第一次長州征伐以降「長州藩の領土を削るなどして許してやる」という方向で話が進んでいました。
初めの頃は、長州側も乗り気でしたが、藩内のクーデターが起こってからは、長州藩は再び反幕府派となっていますから、交渉に応じようとしません。
幕府側の要求をのらりくらりと交わしながら、時間だけが過ぎていきました。
そしてついに、長州藩は1866年、幕府との交渉のために派遣していた使者を引き上げ、幕府との戦闘態勢に入ったのです。

長州の攻勢

幕府の呼びかけに応じて、全国から集まった幕府軍は、15万人を数えるほどです。対する長州は、わずか5000人ほど。数の上では圧倒的に不利な状態です。

しかし、戦いを優勢に進めたのは長州でした。
幕府は、四か所から長州を攻め立てますが、そのいずれも、長州藩の防衛戦を突破することはできませんでした。

特に、長州に近代戦術を持ち込んだ、大村益次郎指揮する現在の島根県・石州口では浜田城や石見銀山を奪取。高杉晋作・山県有朋と長州のエース級の指揮する九州・小倉口では、幕府軍を撃破するどころか、小倉城を奪い取るまでに快進撃を重ねたのです。

将軍の死、長州藩の勝利

こうして、各地の戦線で長州藩が勝利を収める中、攻める幕府軍に、激震が走る事件が起こります。
長州征伐の指揮のために、江戸から大阪城へと出てきていた江戸幕府の将軍徳川家茂が脚気によって大坂城で急死したのです。

最高指揮官である将軍の死に、幕府軍内では混乱が起こり、戦争どころではなくなります。そこに、すかさず、長州の秘密の同盟相手である薩摩藩が、「長州征伐、やめた方がいいんじゃないですか?」という趣旨の提案を持ってきたのです。

結局、長州征伐は次の将軍である徳川慶喜が兵を引くことを決意したため、終結へと向かいます。最終的には講和が結ばれ、長州藩は占領した土地のいくらかを手に入れるにとどまりました。

しかし、結果を見れば、長州藩が十倍を超える幕府軍をいともたやすく撃破し勝利したと言う長州藩の大勝利です。幕府の兵力は役に立たないことが露呈し、全国で本格的に討幕運動が活発化していくのです。

第二次長州征伐が与えた影響

「15万の兵を動員しながら長州藩にボロ負け」

この事実は江戸幕府が積み上げてきた威信をすべて失ってしまい、その威信によって成り立っていた幕藩体制そのものに大きなひびが入ることになります。

この結果諸大名はどんどん幕府から離れていき逆に勝利した長州藩はどんどん力を増していきます。

これによって倒幕運動が加速していくことにんり明治維新に繋がるのでした。

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