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世界史 歴史用語

世界最大の危機!?キューバ危機について解説!

有史上、世界的な危機は何度も起こりました。第一次世界大戦、第二次世界大戦、世界恐慌…。そのような政策や経済の危機を幾度と乗り越えてきた人類に、地球そのものに多大な影響を与えかねない強大な危機が訪れることになったのです。

核戦争一歩手前とも言われるほど最も対立が深刻化した事件キューバ危機とは何がきっかけだったのでしょうか?今回はキューバ危機についてご紹介します。

キューバ危機とは

赤いところがキューバ。上にはアメリカのフロリダ半島が見える

キューバ危機とは、1962年の10月から11月にかけて起こった、アメリカとソ連が激しく対立した事件です。

ソビエト連邦(ソ連)がアメリカの隣国であるキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚したため、アメリカはカリブ海でキューバの海上封鎖を実施。

ソ連は艦船をキューバに向かわせていたため、アメリカとソ連の直接衝突、さらには核戦争の危機が迫りました。

最終的には両国首脳が交渉し、土壇場でソ連がキューバにある核ミサイルを撤去したため、危機は回避されました。

キューバ危機が起こった背景

アメリカとソ連の対立であるにも関わらず、キューバ危機という名の通り、舞台となったのは南米にある「キューバ」でした。なぜ、キューバで米ソの激しい対立が表面化したのでしょうか。

もともとキューバではアメリカの資本と強く結びつきアメリカの支援によって国家警察を掌握して独裁を行っていたバティスタ政権がキューバを牛耳っていました。

しかし、親米の独裁政権にうんざりしていた民衆を背景にフィデル・カストロの指導によるキューバ革命によって同志であるチェ・ゲバラらと共にゲリラ戦を展開し、革命を勝ち取り社会主義国家が建設されました。

フィデル・カストロ

バティスタ追放後、カストロは民族主義的な社会改革を標榜し、農地改革法や小作人の解放に着手します。しかし、当時キューバ国内において多くのサトウキビ農園はアメリカ人が経営していたので、アメリカ人はカストロの改革に強く反発し、キューバ産の砂糖の輸入に制限をかけるなどキューバへの抑圧を強めます。

このアメリカの措置に抵抗するため、キューバは当時アメリカと対立していたソ連に接近していったのです。その後キューバにCIAを送り込み革命政府の転覆を謀るなどしたアメリカに対し不信感をますます募らせたカストロは、1961年にキューバ社会主義宣言を行い、社会主義路線を採ることを内外に明言することとなりました。

核ミサイル基地建設と海上封鎖

キューバの接近を受け入れたソ連のフルシチョフは、第三世界と呼ばれたアジア・アフリカ・ラテンアメリカといった当時の発展途上国の支援と核戦力の強化によって対アメリカに対し優位を得ることを目的にキューバに核ミサイルを配備します。

1962年10月14日、アメリカ空軍はキューバ上空からソ連軍のミサイル基地が建設中であることを発見・確認しました。アメリカの裏庭と呼ばれる南米にあるキューバに核ミサイル基地が設置されるということは、すなわちいつでもアメリカ本土を核で攻撃できるようになったということを意味します。

このソ連によるキューバの核ミサイル基地建設に抗議するため、アメリカは1962年10月22日から戦艦と戦闘機を派遣しキューバ海上を封鎖しました。これがキューバ危機と呼ばれる事件です。

このキューバ危機において、時の大統領ジョン・F・ケネディはキューバから攻撃があった場合はソ連によるものとみなし報復すると宣言しましたが、ソ連はすでに機材と武器を積んだ艦船をキューバに向かわせていました。アメリカによる海上封鎖を突破しようとすれば米ソ間の直接衝突は避けられず、核戦争の危機は目前にまで迫っていたのです。

しかし、ケネディもフルシチョフも核戦争は望んではいませんでした。一方で、事態は緊張が高まる一方で、双方が少しでも誤った判断をとれば戦争は避けられないという緊迫した状況でした。

アメリカのキューバ海上封鎖から4日後の10月26日、フルシチョフ側からアメリカがキューバに侵攻しないのであればミサイルを引き上げるという打診がなされました。

この打診を受けたアメリカは27日午前からホワイトハウスで国家安全保障会議を開きました。この日の正午にはアメリカのU2機がキューバ上空で撃墜されるなど、緊張は最高潮に高まりましたが、午後4時ついにケネディは報復攻撃を行わないこと、キューバに侵攻しないというフルシチョフの提案を受け入れるに至ったのです。そして度重なる交渉の末ソ連が土壇場で譲歩し、なんとか危機は去りました。

この打診を受け入れるまでに米ソ間の緊張はかつてないほどに高まり、フルシチョフは妻に対しただちにモスクワを出るよう電話を入れ、国務長官マクナマラはこの日が生涯最後の日になると確信したほどだったといいます。

キューバ危機の余波

核ミサイルが発射されれば多くの人民の生命が失われるだけでなく、核ミサイルから出る放射能は生き残った人々の健康を脅かし、土は汚染され、人も動物もその地に留まることは不可能になります。

こうした地球規模の危機をなんとか回避できたのは、アメリカとソ連双方が話し合いを行ったためです。かつてない緊張をもたらした米ソの激しい主張の裏で、ケネディ大統領の弟である司法長官のロバート・ケネディと駐米大使ドブルイニンが連絡を取り合っていました。この折衝にあたったロバートは回顧録で「キューバ危機の教訓は、相手の気持ちになって考えてみることだ」と述べています。

キューバ危機後、同じ事態を招かないように米ソは緊張緩和を模索していくこととなります。1963年6月のケネディ大統領の演説では、全面核戦争になれば最も大きな被害を受けるのはアメリカとソ連であるとして、イデオロギーが違っても両国は共存可能であると述べました。こうして米ソは断絶を徐々に緩和していき、ロバートとドブルイニンの秘密裏の連絡に頼るのではなく、直接国のトップが話合うことができる直通通信協定を結びました。そして、この演説から2ヶ月後の米英ソ三国間で部分核停条約が結ばれ、核戦争という地球の危機は当面回避されることとなったのです。

キューバ危機のその後

このような危機的状況を今後起こさないため、デタント(両国間の緊張緩和)が行われました。

両国首脳を直接結ぶ電話「ホットライン」が設置されたり、核実験を制限する部分的核実験禁止条約に締結するなど核戦争回避の流れが加速しました。

その一方で、ソ連ではアメリカに妥協したフルシチョフの姿勢が批判され、フルシチョフの解任につながり、かねてから関係の悪化していた中華人民共和国との対立も表面化してしまいました。

一方でアメリカでは1963年11月22日にケネディ大統領がダラスにて暗殺されてしまいます。

こうしてキューバ危機という最大の危機は回避されましたが、そこから冷戦は新しい局面を迎えることになるのです。

まとめ

このようにキューバ危機とは、アメリカとソ連の大国同士が、核戦争の危機に直面した事件であり、世界的にも衝撃的な出来事でした。

そしてこのキューバ危機以降、核戦争回避の流れができて、両国間の緊張緩和もつながったことはこの危機がもたらした良い側面であったといえます。

キューバ危機は冷戦の重大なターニングポイントであり、世界のターニングポイントだったのです。

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