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世界史

今だからこそ振り返りたいクリミア戦争についてわかりやすく解説!

2020年10月29日

歴史はよく繰り返されると言います。我々人類はそこからどう原理原則を学び、未来につなげていくべきなのでしょうか。
民族主義思想による国家的ナショナリズムの高まりや、国家間のイデオロギーの対立が目立つ昨今の世界情勢。そんな中、本日は同じく民族主義思想にわき返っていた時代、1853年から1856年の間にクリミア半島で起きた列強国同士の戦争、クリミア戦争について振り返ってみたいと思います。

クリミア戦争とは

クリミア戦争とは1853年から1856年の間、クリミア半島などを舞台に、ロシアと連合軍(オスマン帝国・イギリス・フランス・サルデーニァ)との間で行われた戦争のことを指します。ナポレオン戦争以後から40年近く、ヨーロッパでは大国同士の争いは起こっていませんでしたが、クリミア戦争では、ロシア90万人弱、連合軍60万人弱が動員、国家同士のまさに総力戦の戦争となりました。

戦争の背景

かつて中東に広大な領土を保有して栄華を誇っていたオスマン帝国も19世紀中盤になるとかつての栄華に陰りが見え始めていました。

フランスはこうしたオスマン帝国の弱体化に乗じて勢力拡大をもくろみます。フランスの皇帝ナポレオン三世は、国内のカトリック教徒に対してイェルサレム獲得を約束するなど、領土獲得に向けた国内の関心を引き寄せながら聖地イェエルサレムの管理権譲渡を求め、オスマン帝国に圧力をかけます。結果的にはオスマン帝国がこの圧力に屈する形となり、オスマン帝国がフランスに聖地イェルサレムの管理権を譲渡(聖墳墓協会など、キリスト教施設の重要施設の保護権をフランスに認めた)を行いました。

これをみてロシアがギリシア正教徒の保護を名目に黒海沿岸のモルダヴィア公国などにロシアが侵攻。

それを契機として3年に渡るクリミア戦争は開始されました。

ロシアの南下政策

ロシアの名目上の理由は正教徒の保護でしたが、ロシアがそれ以上にオスマン帝国を狙った理由がロシアが長年拡張政策の軸としていた南下政策がありました。

ロシアという国は今もそうですが基本的には寒いです。そのため冬になると海が凍ってしまい、海上貿易ができない状態となってしまいます。

そのためロシアからしたら一年中凍らない港いわゆる不凍港の獲得が悲願だったのです。

元々クリミア半島は地理的にも戦略的にも重用な地であるばかりか、不凍港を求めて南下政策を目論んでいたロシアにとって、地中海へとつながる黒海は何としても獲得したい港でした。

ロシアはここぞとばかりにオスマン帝国に対してフランスにイェルサレムを譲渡したことを非難すると同時に、ギリシア正教会の保護をオスマン帝国に約束させようと試みます。しかし、オスマン帝国はこれを拒否。これにより、ロシアは侵攻の大義を得たとし、モルダヴィア公国への侵攻を開始しました。

フランス、イギリス、サルディーニャの参戦

こうしてロシアが参戦することになりましたが、このロシアの南下政策はイギリスやフランスが強く警戒していました。

特にイギリスはロシアが黒海から地中海に参戦すれば、イギリスのインドなどアジア地域へのルートを絶たれる恐れがあり、大変問題視していました。

そんな中起きたイェルサレムのフランスへの譲渡に端を発するクリミア戦争ですが、イギリス、フランス、サルディーニャ共に開戦当初から本格的に参戦したわけではありません。クリミア戦争への本格的な参戦は開戦当初に起こった1853年11月のシノープ海戦でオスマン海軍がロシア海軍に大敗したが大きく影響しています。

フランスやイギリスは、その時のロシア海軍の破壊行為をメディアを中心に広く報じさせたことで、世論を反ロシアに傾かせます。結果、イギリスのパーマストン内閣と、フランスのナポレオン3世は本格的にロシアとの戦いに本格的に参戦していくことになるわけです。

また、そこに分裂していたイタリア統一に向け列強社会への存在アピールを目論んでいたサルディーニァも参戦していくことになります。サルディーニャは、統一戦争を戦う上でフランスの力を是が非でもあてにしたいと思っていました。その意味で、ここでサルディーニァにしてもフランスの好意を獲得しておく必要あった訳です。

こうして大国を巻き込んだ戦争はどんどん泥沼化の構図に入り込んでいくこととなりました。

セヴァストポリ要塞の戦い

セヴァストポリ要塞の戦いの様子

クリミア戦争において最も激戦となったのが、1年にも渡って繰り広げられたセヴァストポリ要塞5万のロシア守備隊と連合軍との攻防だと言われています。このセヴァストポリ要塞(最弱部のマルコフ砲台)を連合軍側に落とされれば、連合国側に黒海の制海権を握られ、戦局はロシア側に一気に不利に傾きます。そのためロシア側は決死の死守を図りました。

ロシアはセヴァストポリを徹底的に要塞化、黒海艦隊の一部を自沈させ、連合国艦隊が要塞を攻撃しにくくなるようにしました。さらに船に積んでいた大砲を要塞防衛に転用し、水兵も防衛軍に組み込むなどして守りを固めて応戦しました。これに連合国側も攻めあぐね、そこにイギリス、フランスの補給困難も重なったことで戦争は膠着状態へと突入していきました。

結果的には、サルディーニァ王国軍の精鋭部隊が救援にかけつけたことで、戦局は一変。連合軍は何とかセヴァストポリ要塞の陥落に成功します。しかし、このセヴァストポリ攻防戦はロシア側、連合軍側含めて20万人の死者を出すなど、双方にとって大きな犠牲を払う戦いとなってしまいました。

余談とはなりますが、このセヴァストポリ要塞には著書「戦争と平和」で有名なロシアの文学者トルストイも一兵卒として参戦したそうです。トルストイはこのときの体験をもとに「セヴァストーポリ」という文学作品を残し、一発の弾丸が兵士の生死を決する瞬間を捉えて描いて、当時の社会に大きな影響を及ぼしたと言われています。

またこの時イギリスの看護婦であり、近代看護の創始者と言われるナイチンゲールも戦地に派遣され、イスタンブール対岸のスクタリ病院で傷病兵の看護にあたっていました。

ナイチンゲール。クリミア戦争の時の献身的な介護から「クリミアの天使」と呼ばれた

イギリスの戦時大臣ハーバードがナイチンゲールら看護団をクリミアに派遣しましたが、当初前線の軍医たちとの間で摩擦があったそうです。

しかし、ヴィクトリア女王がナイチンゲールからの報告を直接自分のところに届けるよう命じるなどしたこともあり、少しずつナイチンゲールが活動しやすい環境が整っていったとか。こうしたナイチンゲールの活動は後に赤十字活動にも引き継がれていくことになるのは、あまりにも有名な話でしょう。

(ただし、ナイチンゲールは統計学者や看護教育学者として有名であり、ボランティアによる救護団体の常時組織の設立にはむしろ真っ向から反対していたそう)

クリミア戦争の戦後処理

パリ条約の締結の様子

このセヴァストポリ要塞の陥落が決定打となり、また頼みにしていたオーストリアの援軍も受けられなかったことが影響してロシアは降伏。多くの犠牲を出すこととなったクリミア戦争はここに終結し、戦後処理がパリで行われ、1856年に講話条約(パリ条約)が結ばれました。
パリ条約では、オスマン帝国の領土が保全、ドナウ川の航行の自由が認められました。またベッサラビア(現モルドバ)をモルダヴィア公国に割譲し、モルダヴィア公国はラワラア公国とともに自治が認められ(なおふたつの国は1859年に統一してルーマニア公国となる)、セルビア公国の自治も認められることとなりました。

クリミア戦争後の列強

フランスとイギリス

ナポレオン三世

クリミア戦争に勝利したフランスではナポレオン三世の人気が益々高まっていくこととなりました。

またフランスはイタリア統一戦争ではサルディーニァ王国を支持してオーストリアと戦い領土拡大にも成功、イギリスはアジア支配ルートの維持に成功することができました。

サルディーニャ

サルディーニャはクリミア戦争でフランスに恩を売ったことで、ナポレオン三世とカブールの密約を結ぶことに成功(プロンピエール密約)、翌年にはイタリア統一戦争に突入していきました。そして両シチリア王国をはじめとしたイタリアの諸国を統合したことでイタリア統一を果たすことになるのです。

オスマン帝国

ロシアを退けたオスマン帝国に関してはやはり弱体化の波には逆らえず、トルコ領内でのキリスト教徒に対するヨーロッパの保護などにも合意したことで、トルコはクリミア戦争以降、ヨーロッパ列強の干渉にますますさらされていくこととなりました。

そしていつしか栄華を誇っていたかつての姿はなくなり、いつしか「ヨーロッパの病人」と揶揄されることになるのです。

まさに弱肉強食の世界とはこのことであり、弱体化につけこまれたオスマン帝国はアヘン戦争により一時期欧米列強諸国の食い物にされてしまった中国の清国と重なるものがあります。

ロシア

アレクサンドル二世

一方、戦争に破れたロシアは方針を転換。クリミア戦争の敗戦が近代化の遅れであると察したアレクサンドル二世は、急速な近代化を推し進めていきました。その代表例が、農奴解放令です。アレクサンドル二世は農奴と言われる低い身分の人たちに職業選択の幅をもたせることで、ロシアの商業、産業育成を図りました。

またそれ以外にも県や郡などにゼムストヴォとよばれる地方自治機関を開設し、地方制度を見直すなど、教育改革や軍制改革も実施して近代化を急ぎました(結果的に近代化を急ぎすぎたアレクサンドル二世は暗殺されることになります)。

クリミア戦争の敗戦によりバルカン、黒海方面への南下政策が失敗に終わったロシアは、その後その方面への進行を一時棚上げして、方針を展開し、19世紀後半にかけては中央アジアや東アジア進出に向かっていくことになります。その後東アジア進出を目指すイギリスとその覇権を争うことになり、日露戦争もその延長線上にあると言うわけですね。

まとめ

このクリミア戦争の時代は各地で民族主義の風が吹き荒れていました。それが争い事の火種となり、やがて人間同士の殺し合いへと発展していったわけです。

またこの戦争の後、敗北したロシアは上からの改革を実行し農奴制の廃止を行い、オスマン帝国ではタンジマート改革が進められていくことといった形で各国の内部の変化をもたらすことになったのです。

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