第二次世界大戦後、40年余りにわたり東西に分断されたドイツ。分断の象徴、ベルリンの壁から東西ドイツについて考えます。
今やフランスとともにEUの中核としての役割を果たすドイツ。しかしかつてのドイツはベルリンの壁で首都も東西に分断されていました。
分断から統一までの経過と統一後の混乱。また、今後の課題についてみていきます。
ベルリンの壁とは
第二次世界大戦後、ドイツは連合国の支配下に置かれました。
イギリス、フランス、ソ連、アメリカの4か国が連合国です。この時資本主義国側と社会主義国側の二つの地域に分断。
ところが、当時、ドイツの首都はベルリンであり、ベルリンは東西両陣営2つの分断支配を受けることに。しかし、西側地域との行き来は、鉄道や空路など比較的自由でした。戦争の痛手もあり、西側は、実質アメリカ一国の影響下になっていくことになります。
そして1949年に西ドイツと東ドイツがそれぞれ成立。ドイツは分断国家となったのでした。
キューバの革命成功が、アメリカとソ連は対立を深め、冷戦時代に。このため、東西ドイツは冷戦の危機にさらされた地域となりました。
東側の人々は西側の自由な生活に憧れ多数流失する事態に。このため、ソ連は「ベルリン封鎖」という暴挙にでます。
食糧はじめ石炭やその他、生活物資を西側から排除しました。西ベルリンの人々と連合国軍を支援したのは、大規模な空輸作戦。
こうしたことから、1961年に壁が築かれることになりました。その壁は、全長155kmにも及ぶ大規模なものでした。ブランデンブルク門の西側が境界とされ、こうして名実ともに孤立した西ベルリン。この様子は「赤い海(共産主義諸国)に浮かぶ自由の島」といわれるようになりました。
ベルリンの壁崩壊とその影響
突然、分断されることになったベルリンの街。
分断する壁を乗り越えて、自由を求める人は後を断ちませんでした。壁の崩壊まで多くの市民が犠牲となりました。
しかし、1980年代、社会主義国の経済力は衰退し、東欧諸国では民主化のうねりが起こり始めます。そのさきがけは、ポーランドの自由連帯の民主化運動でした。またソ連でもゴルバチョフによる改革運動(ペレストロイカ)が進められていました。
社会主義国内では、次第に、経済の民主化が進められたのです。
ベルリンの壁を崩壊させる時が迫っていました。自由を求める人々と国際世論の後押しがその原動力でした。1990年3月18日、東ドイツで行われた自由選挙とそこで東ドイツの人々の意志が確認されました。
東ドイツはこれまで厳しく制限してきた西ドイツへの出国を大幅に緩和すると発表。「すべての東ドイツ国民に、東ドイツからの出国を認める」と発言したのです。それに対し、記者からいつから出国が認められるのかと問われたシャボウスキーは、「私の理解では、ただちに」と返答してしまいます。本来であったら午前五時に行うものを直ちに行うと発表したことでこのニュースを知った民衆が検問所に押し寄せ、ベルリンの壁を突破していきました。こうして長年ベルリンを分断してきたベルリンの壁が崩壊。1989年11月9日のことです。
ベルリンの壁の崩壊の影響は、少なくありませんでした。東欧のブルガリアの独裁体制が崩壊たさせことにも関係しています。そして、結果的にはソ連の連邦解体にも繋がっていきました。
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東西ドイツの統一
東西のドイツ国民にとって、「統一」は長年の悲願でありました。特に、東側の市民にとっては大きな期待が持たれるものでした。これまでの厳しい監視下に置かれた生活からの解放。しかし、現実は厳しく、思い描いた生活とは大きく違っていました。
経済力の違いから、対等な立場の統一とならなかったからです。結局、西側に東側が吸収される格好となりました。統一後、経済的格差を埋めるべく方策が練られました。人々に課された連帯税付加税もそのひとつでした。
しかし、東側では国営企業も相次ぎ倒産。労働者はリストラや失業の嵐に見舞われました。経済的に取り残された東側。多くの若者たちが西側に流失したのも当然のことでした。
東側の人々は差別的な待遇や視線を感じることも多いようです。統一前、東ドイツの国家評議会議長はこう言ったそうです。「仕事の無い自由は自由でない」
生活は質素でも仕事はあった東ドイツ時代。そんな時代に郷愁を感じる、「オストロギー」という言葉もあります。
「オスト」とは東の意味。「ノスタルジー」と合わせた造語です。旧東ドイツの人々は、精神的にも経済的にも苦しいのが実情です。
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今後の課題
「ベルリンの壁」が崩壊し、ドイツが統一して30年あまりが経ちました。東西ドイツの統一を心待ちにしていた人々の思いはちょっと複雑。東側と西側では、経済的だけでなく心理的な格差もあるからです。
急激な社会システムの変換は大きな負担をもたらしていました。それが東部地域での排外主義の高まりにも影響しています。ネオナチのような、ユダヤ人に対する暴力事件も増えています。経済的な不満もあって、異分子に攻撃的になっているのです。
ベルリンの壁崩壊式典でのあいさつの中にもあります。「我々は新たな壁、見えない壁を築いてしまった」これは、シュタインマイヤー大統領の言葉です。長年の社会システムの違いは、大きな心理的抵抗となっています。
統一は、経済面でのみ考えられがちでした。ところが、そうではない事実に直面して、困惑しているのです。
統一にあたり、課せられてきた連帯付加税。西側の人々には景気の衰退とともに、不満も高まっています。この連帯付加税をいったいいつまで続けるのか?2019年、この税について議会で討議されました。
賛成多数で90%の納税者がこの税を免除されることが決定。2021年から実施されます。
様々な問題が複雑にからみあって一縄ではいきません。その大変さは次の言葉にも表されています。「統一には50年、もしくはそれ以上かかる」これは、メルケル首相の言葉です。
難問山積みのドイツ政権。しかし、ひとつひとつ真摯に向き合っていく必要があります。