日本の重大な転換点であった満州事変でしたが、実はこの事件の前に『張作霖爆殺事件』という事件が起きて満州を手に入れようとしていたのです。そして子事件によって日本の首相が変わる事態となりました。
今回は日本がついに満州に手を出してしまい、どんどん日本軍が暴走し始める張作霖爆殺事件についてわかりやすく解説していきます。
この記事の目次
張作霖爆殺事件とは

張作霖爆殺事件とは1928年(昭和3年)6月4日に満州で最も力を持っていた軍閥勢力である張作霖が、蒋介石率いる国民党軍に敗れ列車で満州に戻っているときに日本の関東軍の河本大作によって列車が爆破されるという事件のことを言います。日本政府内では満洲某重大事件と呼ばれていました。
この事件は満州に勢力を伸ばしたい関東軍が起こし、この爆破によって張作霖は亡くなってしまいました。この事件以降日本はどんどん満州に侵攻していきます。
張作霖が暗殺されるまでの歴史的背景

張作霖が暗殺された時代は軍閥が中国各地に存在し、軍閥同士が中国国内の覇権争いを繰り広げていました。
この中国の情勢に合わせて、外国勢力は軍閥を支援していました。日本も例外ではありません。
日本は満州を拠点にする軍閥である張作霖を支援することで中国国内での影響力を強めていこうと目論んでいました。軍閥の争いの中で国民革命軍のリーダーではある蒋介石は満州地域を治める張作霖を討伐するために北伐を行っていました。
そのような中で起こった事件が、張作霖爆殺事件です。
軍閥が誕生するまでの流れ
話が少し戻るのですが、1911年から1912年にかけて起こった辛亥革命の立役者である孫文は辛亥革命で袁世凱に対して清側から孫文側に寝返った見返りとして大総統の座を譲ります。袁世凱は清の最後の皇帝である宣統帝を退位させ滅亡させました。
ここから独裁的な力を持ち、自分自身皇帝になるという野望を抱きますが、支持を得ることができず、そのまま1915年になくなってしまいます。袁世凱が生きている間は袁世凱がダントツで強かったため争いがありませんでしたが、彼の死後、袁世凱の後継者争いが勃発し、中華民国各地で争いが起こり始めました。そして、各軍人たちが持つそれぞれの地域を支配するようになり、軍閥と呼ばれる勢力が誕生しました。
北伐とは?
北伐とは1926年から1928年にかけて蒋介石の国民革命軍行われた中国統一のための軍事行動のことを言います。蒋介石は南京を拠点にしていたので、そこから見て北の地域に進軍していったので北伐といわれるのです。
北伐の中で、国民党と手を組んだ共産党(国共合作)によって上海の解放が行われたり、南京国民政府が樹立されたり、日本の山東出兵の契機となったり、張作霖が大敗し、爆殺事件に繋がったりと様々な面で影響を与えた出来事です。
張作霖と日本の関係悪化
話を張作霖に戻すと、北伐を行う国民党との戦いに敗れ戦局が悪化していく中、張作霖は北京に入ったときに日本を捨てて欧米諸国と仲良くなっていき、当時日本が運営していた南満州鉄道に対抗するために張作霖独自の鉄道を作っていこうと考えていきます。
張作霖は今まで支援をしてくれていた日本から距離を取るようになり、さらに支援を行ってくれる欧米諸国との関係を強くして生きました。これに対して面白くないのは日本。とくに南満州鉄道の警備を行っていた関東軍はは張作霖のことをどんどん嫌いになり、排除の考えが濃厚になっていきました。こうして張作霖との関係がどんどん冷めていく中で関東軍は張作霖暗殺を計画していったのです。
張作霖爆殺事件の発生
欧米諸国から支持を得た張作霖でしたが、南京から攻めてきた国民党軍に負けてしまい北京から撤退します。
そして1928年6月4日、瀋陽駅途中の鉄橋に仕掛けられていた黄色火薬300kgが爆発。列車は大破炎上し張作霖はこの世を去ってしまいます。
関東軍は張作霖の爆殺によって満州を手に入れることができると確信していたのです。
事件直後の各方面への影響
関東軍は張作霖を爆破したことによって中国と日本の多大な影響を与えました。
張学良の台頭
張作霖が暗殺されたことによってその息子の張学良に支配権が渡ります。
そして、張学良は犯人が日本の関東軍ではないかという情報をキャッチしました。そこから張学良は日本に対してかなりの反感を持つようになりました。徹底的に日本軍に対して抵抗していくようになっていきます。
ここから先、張学良は共産党を潰すことを第一優先にしていた国民党の蒋介石を共産党と協力して抗日を第一優先にするように仕向ける(西安事件)など、事件後第二次世界大戦が終わるまで様々な場面で影響を与えます。やはり親を殺された憎しみからくる行動力というものはすごいですね・・・。
昭和天皇の大激怒
この張作霖爆殺事件は当時の内閣総理大臣であった田中義一、そして昭和天皇にまで伝わりました。昭和天皇は田中義一に対して「張作霖の暗殺に関わったものを厳正に処罰するように」と伝えました。田中義一も処罰するために動き出しました。
しかし、関東軍の反対が激しく、結局、実行犯である河本大作は停職処分という軽い刑で済まされました。天皇からすると自分の指示で処罰するように伝えたにもかかわらず、それが行われなかった。面目が丸つぶれです。
天皇は田中義一に大激怒をしました。田中義一は天皇という当時は「神」として扱われている存在の人から激怒され、見放されたことに大きなショックを受けたのではないでしょうか。田中義一はこの一件をきっかけに内閣総辞職をします。
余談ですが、昭和天皇が誰かに対して激怒をすることはこれから先なかったと言われています。天皇陛下自身も自この一件で分が感情的になって怒ることは一人の人間の人生を左右するほどの力があることと感じたのではないかと思います。そうしたことがあってこれ以来、太平洋戦争が起こり国の存亡の危機に立たされても、政治に対してあまり口出しをしなくなったのではないかと推測することもできます。
でも天皇がここまで張作霖爆殺事件を問題視したのはなぜでしょうか。それは当時の憲法である大日本帝国憲法の中に天皇が持つ権利として「統帥権」というものがあったからです。この統帥権が意味することとしては天皇が日本軍のリーダーとして指揮する権利を持つということです。もちろん、天皇は軍事関係に詳しいというわけではないので、実際に天皇は指揮していません。あくまで、形式上です。
ということは何か軍事行動を起こしたり、重要な判断が必要だったりする時には日本政府に伝達し、天皇の指示のもと行動を起こす必要があります。ですが、今回の事件ではその伝達なしに関東軍の独断で行われました。つまり憲法違反というわけです。
しかし、満州で力を持つ張作霖を暗殺したことが表に出ると国際社会からの批判を受け、日本の孤立がどんどん進んで行ってしまう。そして、天皇の意向を無視して、行動を起こしたというところから天皇の権威の失墜にもつながりかねません。
以上のような観点から、日本政府は張作霖爆殺事件のことを満州某重大事件と呼び、バレないようにしました。国民の耳にこの事件の存在が知らされることはなかったのです。
その後日本は戦争への道を本格的に歩みだす

張学良の台頭と日本政府の対応がもたらしたもの
まず、満州にて、張学良が日本に対して徹底的に抵抗し始め、しかも国民党軍のメンバーとなったため、関東軍は満州の支配に対して不安感を持つようになります。
ちなみに満州は資源がたくさん取れるので、世界恐慌で経済が大変なことになっている中の日本にとっては生命線でした。また、日本政府は関東軍が起こした行動に対して毅然とした対応を行わなかったため、軍部の力が強くなっていきます。日本軍がここからどんどん暴走を始めていくのです。以上の2点から日本は満州の支配を是が非でも強めるために満州事変を起こして日本の傀儡国である満州国を建国するのです。
この関東軍の行動は当時の内閣の若槻礼次郎の不拡大方針に反しており、若槻内閣は関東軍をコントロールできなかった責任を取って辞任します。次の犬養毅も軍部の暴走を止めようとしましたが、五・一五事件で暗殺されてしまいます。
ついに、犬養の後を継いだ斎藤実内閣では日満議定書に調印し、満州国を承認します。軍部の勝手な行動にも関わらず、それが認められてしまったのです。そして、ここから日中戦争、太平洋戦争へと日本は突き進んでいくことになります。
まとめ
この張作霖爆殺事件は張学良が台頭し、中国は抗日への体制となっていく一つのきっかけとなる事件でした。
この事件での政府の対応の悪さが軍部の力を強くされる結果となり日本を戦争への道へと歩ませるきっかけとなったのです。