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日本史

安保闘争とはどんな事件?起こった?原因や内容についてわかりやすく解説!

「安保闘争」という言葉をニュースなどで聞いたことがあるけど、具体的にはどんな闘争?という人が大半ではないでしょうか。
そんな「安保闘争」について詳しく解説していきます。

安保闘争とは?

1960年6月18日に国会を取り囲んだデモ隊

安保闘争とは、1958年の日米安全保障条約の改定に反対して、全国規模で起こった国民運動のことを指します。

日米安全保障条約改定を推し進める当時の政権に対して、国会議員や一般市民、学生などが反米・反政府運動を繰り広げました。
戦後最大の大規模なデモ運動に発展したため、安保闘争と呼ばれているのです。

日米安全保障条約とは何なのか?

安保闘争の発端となった日米安全保障条約は、1951年9月8日に「対日講和条約」と同時に署名された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」と1960年1月19日の「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」の総称です。

対日講和条約は署名が行われた都市の名をとって、サンフランシスコ平和条約とも呼ばれています。

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サンフランシスコ平和条約は、1945年に日本が敗戦した第二次世界大戦の戦争状態を終結するための条約で、日本と連合国であるアメリカを始めとする48ヶ国との間で締結されました。これにより日本の主権が回復されたのです。

一方の日米安全保障条約は、日本におけるアメリカ軍の駐留を認める内容。あわせて日本に大規模な内乱があった場合や他国から攻撃を受けた場合に、日本からの要請があればアメリカ軍は出動できるとも明記されています。

しかし実際には、日本からの要請に応じなくても条約違反にはならず、実質アメリカは日本に駐留するものの防衛義務はないという不平等な条約でした。

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1958年9月、時の内閣総理大臣・岸信介が日米安全保障条約の改定に向けてアメリカと交渉を始めます。
岸信介は日本の第56・57代内閣総理大臣で、第90・96・97・98代の内閣総理大臣をつとめた安倍晋三の祖父にあたる人物です。

岸信介は親米に重きを置きつつも、日本の自主独立も望んでいました。アメリカが日本に対する防衛義務を負わない日米安全保障条約に対等性を持たせるため、改定に向けて動き出したのです。

日米安全保障条約の改定ポイント

日米安全保障条約の改定の焦点は、片務性解消と事前協議制の2点でした。
具体的には1点目はアメリカが有利な片務的関係から日本とアメリカの相互防衛にすること、2点目は在日アメリカ軍の配置や装備に関して両国間で事前協議をすることです。

新日米安全保障条約の調印

岸信介は総理就任後、早々に外務大臣を渡米させ、ダレス国務長官に平等な条約に改定するよう働きかけました。
当初、アメリカ政府は条約の改定案には難色を示していたようです。

しかし当時、アメリカは宇宙開発競争などで当時のソビエト連邦に遅れをとっていました。
そこでソ連と地理的に近い日本を対ソ連のための軍事基地として活用しようという思惑がありました。

その結果、岸信介内閣は1960年1月にアイゼンハワー大統領との間で、新安全保障条約の締結を果たしました。
新条約には、相互防衛の義務化と事前協議制度の設置が明文化されており、岸信介の念願が叶った形となりました。

しかしこの新安全保障条約が火種となって、日本が安保闘争へと進んでいくのです。

安保闘争の始まり

アメリカとの調印を無事終えた岸信介ですが、今度は国会で新安全保障条約の承認を得なければなりません。
国会審議が始まると、まず安保反対を掲げる日本社会党の抵抗にあい、安保反対運動が広まっていきました。

安保締結前からあった反対の声

日本国内では、新安全保障条約に対する反対の声があがっていました。1950年代後半といえば、敗戦からまだ数年しかたっていない時期です。
国民の大半は戦争に対する拒否感が強く、日本が再び軍事国家になるのでは?という懸念があったようです。
具体的には、

ポイント

・アメリカと相互防衛関係によって再び戦争に巻き込まれるのではないかという不安
・自衛隊の増強が義務付けられることへの懸念
・第二次世界大戦時に東條英機内閣の閣僚であり戦犯だった岸信介への反感

などがあげられます。

やっぱりA級戦犯に認定されている岸信介が行おうとしているということの印象は全くよくありません。

国内では「日本がアメリカの戦争に巻き込まれてしまう」と条文や改定の内容を詳しく知らなかった一般市民までも反対の声を掲げるようになってきましたのです。

安保改定阻止国民会議の結成

新安全保障条約締結の前年、1959年3月には、日本社会党・日本平和議会・原水爆禁止日本協議会らの団体を中心に、134団体からなる安保改定阻止国民会議が結成されています。

これは戦後の国民的統一行動組織としては最大規模の団体となり、1960年7月までに数回にわたる全国統一行動を実施しました。

岸内閣による強行採決

衆議院における強行採決

安保反対運動が次第に高まる中、岸内閣は1960年5月19日の深夜、自民党反主流派と野党を除いた自民党主流派だけで新安全保障条約を強行採決するという行動に出ました。翌5月20日には衆議院本会議を通過。

このような強硬手段に出たのは、翌月の6月19日にアイゼンハワー大統領が訪日するまでに採決を終わらせたい思惑があったためです。

激化する安保闘争

自民党主流派が行った強行採決は、反対運動が激化するきっかけを生んでしまいました。一般市民も参加しての抗議デモは連日、国会を取り巻き、反対の声をあげました。
特に過激だったのは、大学生の連合組織、全日本学生自治会(全学連)主流派。国会に突入するという過激な戦術をとっていました。

そこで悲劇が起こってしまいます。
6月15日、国会内で警察官と衝突した女子学生の樺美智子が死亡してしまったのです。他にもデモ隊、警察官双方に多くの負傷者が出ています。
岸内閣は翌日16日、アイゼンハワー大統領訪日の延期を発表。日本国内は混乱しており、事実上の訪日中止でした。

安保闘争は終結へ

安保闘争を発展へと導いてきた各新聞社ですが、岸内閣の依頼で6月17日は共同宣言を出して、暴力の排除と議会政治の遵守を訴えました。

6月19日には新安全保障条約は自然成立。6月23日、岸内閣は安保闘争の混乱を終結させるため、また責任をとる形で総辞職を表明します。

7月19日に池田勇人内閣が成立。日本国民を巻き込んだ安保闘争は収束へと向かいます。

1970年の安保闘争

1960年の新日米安全保障条約締結から10年を迎える1970年を前に自動延長されるはずの条約に対して、再び反対運動が起こります。
1960年代後半から全共闘などの学生運動が活発になっており、「70年安保粉砕」をスローガンに国公立大学や私立大学でバリケード封鎖や機動隊との衝突が相次ぎました。

1969年5月、アメリカ政府は1972年に沖縄を全面返還すること、沖縄の核兵器を撤去することを決定。

8月には日本政府は大学の廃校・閉校の権限を文部大臣に付与する「大学の運営に関する臨時措置法」を強行採決します。結果、学生運動は急速に鎮静化していきました。

当時の佐藤栄作内閣は1969年10月に日米安全保障条約を自動継続することを決定します。

1970年の安保闘争のような反対運動を懸念して、条約を毎年1年間の自動延長にしたことが功を奏して10年前のような全国的な闘争にはなりませんでした。
沖縄返還が決定したこともおおいに役立ったといわれています。

安保闘争の意義とは?

日米安全保障条約は、第二次世界大戦後の日本がアメリカに追従する形にならざるを得なかったことを象徴しています。
条約改定に国民が反発したのは、軍事大国アメリカの戦争に巻き込まれるのを懸念したからです。

一方で、日米安全保障条約によってアメリカに軍事面で守ってもらったからこそ、防衛に力を注がずに済み、戦後の復興に資産を費やせたのだという意見もあります。

現在の世論では「日米安全保障条約をこれからも維持していく」を支持する人は6~7割いるといわれています。さらに近年では北朝鮮と中国の脅威に対抗するため、日米安全保障体制はより重要になってくるでしょう。

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