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日本史

二・二六事件ってどんな事件?事件の背景や内容をわかりやすく解説!

近代史の中でいちばん大きなクーデター事件ともいえる二・二六事件。

首都東京を陸軍の一部が占領するといういまでは全く想像がつかないことが太平洋戦争が起こる5年前。1936年2月26日に起きました。それが二・二六事件です。

誰が、どのような目的で起こした事件なのでしょうか?時代背景とともに事件の内容を見ていきましょう。

二・二六事件の概要

事件を指揮する反乱軍将兵ら 出典Wikipedia

二・二六事件は、1936年2月26日から29日の3日間の間に、日本陸軍の一部の将校が起こしたクーデター事件です。けっきょく未遂に終わりましたが、高橋是清大蔵大臣や斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監などが殺害され、鈴木貫太郎侍従長も重傷を負うことに。その結果岡田内閣が総辞職に追い込まれます。またこの事件をきっかけに、その後の陸軍の実権を握る派閥が決定づけられ、軍務大臣現役武官制が復活するなど事件後にまで大きな影響を及ぼしました。

皇道派VS統制派 陸士VS陸大

皇道派の代表格 荒木貞夫大将

なぜクーデターを起こしたのか?当時陸軍内には「皇道派」「統制派」という2つの派閥がありました。

皇道派は荒木貞夫大将と真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)大将を中心とする派閥です。天皇陛下を中心とした体制を重んじ、「物質より精神が大切だ」という主張を展開していました。

これに対して統制派は永田鉄山少将を中心とし、経済・軍事については中央で統制を行い、国家が一体となって国難を乗り切るという「総力戦理論」を展開。精神よりも技術の近代化・機械化を重んじていました。

真逆ともいえる思想を展開する2つの派閥。当然相容れることはなく、お互いがお互いのことをよく思っていませんでした。1935年には、皇道派の将校相沢三郎が、統制派のリーダー永田鉄山を殺害する「相沢事件」が発生。両派の関係はよりぎくしゃくしたものになります。

皇道派の青年将校たちが暴徒化する原因になった理由がもうひとつあります。もともと、クーデターを起こすことになった将校たちは、陸軍士官学校(陸士)上がりの人ばかりでした。エリートコースを歩む陸軍大学校(陸大)出身者とは異なり、中央官僚への昇進はできず、せいぜい実働部隊の長となるのが関の山です。そういうわけで、現場の新兵と接する機会も多かった彼らですが、その中で多くの兵士たちから農村や漁村での窮状についてきかされます。明日の食事すらままならない、姉が身売りせざるをえなくなってしまったなど、それはそれは悲惨な状態だったそうです。自分が軍隊に入ることで、少しでも家族がラクになるのなら、そういう理由で入隊した人が多かったといいます。

そんな話をさんざん聞いてきた将校たち。農村や漁村が貧困にあえぐのは、国家の一部の人間が私腹を肥やし、平等ではない社会を作り上げたからだ!という思想に傾きはじめます。

そしてこの思想に拍車をかけたのが、革命的な国家社会主義者であった北一輝の存在です。『日本改造法案大綱』という書籍の中で、私腹を肥やす高級官僚を「君側の奸」と表現し、君側の奸を倒して天皇を中心とする国家改造論を展開。これが青年将校たちの思想と一致します。今の日本が苦しいのは、本来あるべき国体から外れているからであり、明治維新のときのように権力を天皇に集中させることで政治腐敗をなくし、より良い国家を作る。この「昭和維新」を成功させるには、自分たちが君側の奸を打倒する必要がある、と考えるようになるのです。

クーデター実行

叛乱軍の栗原安秀中尉

二・二六事件の首謀者は、皇道派の陸軍歩兵大尉であった安藤輝三、野中四郎、香田清貞、歩兵中尉栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、元陸軍一等主計磯部浅一、元歩兵大尉村中孝次たちでした。磯部と村中は2年前の1934年に起こった「陸軍士官学校事件」により陸軍を罷免されていました。その他のメンバーは現役の陸軍将校であり、彼らの部隊を率いてクーデターを起こす計画がなされていました。

近衛第三連隊、歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、野戦重砲兵第七連隊の下士官約1,400名は、2月26日の未明から行動を開始。折しも東京は30年ぶりの大雪が降っていました。各部隊の下士官たちは夜半に突如起こされ、武装して集合!の命令が下されます。クーデター計画を知っているのはごく一部の将校のみで、約1,400名の下士官たちには何も知らされていなかったのです。

もちろん軍隊ですから、上官の命令には絶対服従であり、拒否することはできませんでした。部隊は数隊に分かれ、東京赤坂周辺に点在していた政府官僚、重臣らの官邸や私邸、別邸を襲撃。高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監を殺害します。

岡田啓介首相も殺害されたとされていましたが、殺害されたのは岡田首相の秘書官をしていた松尾伝蔵大佐。岡田首相の義弟であり、なんとなく容姿が似ていたことから襲撃部隊が間違えて殺害したのです。岡田首相は首相官邸内に隠れており、難を逃れました。
部隊は警視庁、陸軍省、参謀本部、新聞各社も襲撃。永田町から霞ヶ関、桜田門、赤坂見附の一帯を占拠しました。ほぼすべての主要施設を押さえることに成功したのです。

叛乱軍とみなされる

帰順を呼びかける「下士官兵ニ告グ」のビラ

襲撃後の午前5時頃、青年将校数名は陸軍大臣であった川島義之に「蹶起趣意書」と「陸軍大臣要望事項」を手渡します。

蹶起趣意書には、『元老や重臣、軍閥などが国体破壊の元凶であり、天皇のそばにいて私利私欲をむさぼっている。これらの奸賊(かんぞく)を倒し、国体を擁護して維新を成し遂げるのが蹶起の理由である』と記されていました。要望事項には、蹶起した真意を天皇陛下に伝えること、真崎大将、山下大将などを招致することなどを明記。事態を収拾するために陸軍内で議論されましたが、陸軍内でも「気持ちはわかる」と同調する者、同調しないまでも同情する者、はたまた「反乱は鎮圧すべき」と主張する者など、意見が分かれました。
午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、蹶起部隊の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明したところ天皇陛下は激怒。「叛乱軍を鎮圧せよ」との言葉が発せられます。天皇親政を誓って行動した青年将校たちでしたが、天皇からは「叛乱軍」と見られてしまうのです。
結局、川島陸相から青年将校たちに「蹶起の主旨は天皇陛下のお耳にも入っている。事態がこれ以上の大事に至らないように穏便に収拾をしてほしいが、気持ちはわからなくもない」という曖昧な告示が示されます。これを受けて青年将校たちは「天皇陛下も陸軍のお偉方も自分たちの行動を支持してくれている」と思ってしまいました。天皇から「反逆者」と見られていることは黙っていたのです。この間に真崎大将、荒木大将、山下大将らはクーデターの首謀者たちと面会。懐柔をはかって説得を試みましたが受け入れられず、そういった高級官僚たちの姿勢からも「物事は自分たちに有利に進んでいる」と信じ込んでしまいます。しかし28日、天皇陛下から「叛乱軍はただちに原隊へ帰れ」という奉勅命令が下されます。天皇陛下から発せられたこの命令で、青年将校たちは正式に叛乱軍と認められてしまうことになるのです。
この奉勅命令を受け、陸海軍が叛乱軍討伐に動き出します。海軍では戦艦長門以下の第一艦隊が東京湾に集結。主砲を国会議事堂に向け、いつでも砲撃できる体制を整えました。翌27日には東京市内に戒厳令が布告され一般市民の外出が制限されます。九段下の軍人会館には戒厳司令部が設置され近衛師団、第一師団、宇都宮第十四師団、仙台第二師団派遣部隊が指揮下に。徐々に叛乱軍を包囲していきます。
包囲を完了し、いつでも攻撃できる体制を整えたものの、誰しもが同じ日本軍同士での戦闘はなるべくなら避けたい、と思っていました。そこで戒厳司令部では、投降を呼びかけるチラシを大量に作成し散布、アドバルーンを掲げました。鎮圧部隊の先頭に立つ戦車にも、投降を呼びかけるチラシが貼られました。さらに叛乱軍を包囲する部隊からは、同僚や上官から涙ながらの説得が続けられ、叛乱軍に向けたラジオ放送「兵に告ぐ」では、アナウンサーが涙ながらに原隊復帰を呼びかけました。

事件後の世界

こうした努力の甲斐もあり、けっきょく叛乱軍と鎮圧部隊は銃火をまじえることなく、叛乱軍の下士官たちは次々に原隊に復帰。2月29日、事態は沈静しました。首謀者たちは投降して逮捕されましたが、野中大尉は自決。安藤大尉も自決を図りましたが、一命をとりとめました。逮捕された将校たちはただちに「特設軍法会議」にかけられます。これは通常の軍法会議とは異なり、弁護士はつかず、一審のみで結審し、内容は非公開というもので、俗に「暗黒裁判」と呼ばれました。この裁判で自分たちの意見を主張しようとしていた青年将校たちでしたが、弁明の機会は一切与えられなかったのです。7月5日までに青年将校たちに判決が言い渡されますが、クーデターを先導した主要メンバー15名は死刑、6名に無期禁固刑、6名に有期禁固刑という非常に厳しいものでした。翌年には背後関係の処断ということで、思想家である北一輝と西田税が死刑に。こうして二・二六事件の首謀者はことごとく処分され、これを機に陸軍の主要ポストから皇道派も一層されることに。統制派が主流となった陸軍は、その後東条英機が首相となり、軍閥政治が展開されてゆくことになるのです。
実はこのクーデターには荒木大将や真崎大将など、皇道派の幹部が裏で糸を引いていたとする説もありますが、真意は不明です。いずれにしてもクーデターは失敗し、その後を牛耳った統制派の軍人たちが日本を戦争へ突き動かしていくことになります。

仮にクーデターが成功していたとしても、精神論を重んじる皇道派が仕切る日本はどうなっていたでしょう?あくまで仮説にすぎませんが、統制派の日本よりも、さらにひどい状況になっていたかもしれません。なんせ「竹槍三百万本あれば列強恐るるに足らず」と言い放った荒木大将がトップになっていたわけですから。
しかし一方で、「クーデターが成功し、天皇中心の世の中になっていれば、戦争に進まずにすんだ」という意見もあります。天皇中心の政治を行い、農村や漁村の貧困を解消する。そうすれば、国内の不満が減りますし、国力を高めることにもつながります。そうなっていれば、満州事変のみで戦争は終わっていた、と考える元零戦パイロットもいるぐらいです。ちなみに、終戦後のGHQの改革で財閥解体や農地解放などの政策が打ち出されますが、これらは、二・二六事件で青年将校らが考えていたことと全く同じでした。クーデターが成功していれば、早い時期により近代化された日本に変わっていたのかもしれませんね。

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